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 『吸血鬼ドラキュラ』  ブラム・ストーカー



インプレタタ


ジョナサン・ハーカーの日記《速記文字による》

五月三日。ビストリッツ―五月一日、明朝未明に着くというので、午後八時三十五分、ミュンヘン発。翌朝六時四十六分着のはずが、列車遅延のため、一時間延着。汽車からチラリと見ただけだが、ブダペストというところはなかなかすばらしい所らしい。(中略)宵の内にクラウゼンブルグ着。ホテル・ロエールに投宿。夕食とも夜食ともつかぬ食事をとる。トウガラシで調理したチキン料理を食べたが、すこぶる美味なり。ただし、あとでやけにのどが乾いた(備忘。ミナのために料理法をきいておくこと)。給仕人に聞くと「パプリカ・ヘンドル」という、この地方の郷土料理だそうで、カルパチア地方へ行けば、どこでも出る料理のよし。(中略)朝食は例によってまたパプリカ。それと、この辺で「ママリガ」といっているトウモロコシの粥に、挽肉を詰めたナスビの煮込み。「インプレタタ」というのだそうだが、これがたいへんうまかった(備忘。これも調理法を聞いておくべし)。(中略)
ビストリッツについたのは、暮色もようやく濃くなった頃あいだった。(中略)ここのゴルテン・クローネ・ホテルというのに泊まれと、ドラキュラ伯爵から前もって指示あったので、その宿へ行ってみると、これはまたうれしいことに、この地方の風俗習慣ならなんでもかんでも見ておきたい自分にとっては、まさに打ってつけの、よろず古風ずくめの旅籠宿であった。(中略)この地方で「ロバー・ステーク(どろぼう焼き)」といっているものを自分は食べた。これはベーコン、玉ねぎ、牛肉をトウガラシで味つけしてそいつを串にさし、ロンドンの焼き鳥風に火の上で焙ったものだ。これがさかなで、酒はゴルテン・メディアシュ。辛口の酒だが、存外いける。これを2杯飲んだ。
(平井呈一訳/創元推理文庫)

『吸血鬼ドラキュラ』が英語原文ですべて読める




●作者紹介 

ブラム・ストーカーBram Stoker (1847〜1912)。 本名エイブラハム・ストーカー。
アイルランドのダブリン生まれ。ジェイムズ・ジョイス*1、オスカー・ワイルド*2、バーナード・ショー*3と同郷であり、ほぼ同世代の人である。ダブリン大学トリニティ・カレッジ卒業後、アイルランド政庁に入庁。大学時代から演劇に熱中し、役人時代にも新聞に演劇評を連載していた。1878年、ビクトリア朝の名シェイクスピア俳優ヘンリー・アーヴィング*4が主宰するライシーアム劇場の支配人に迎えられる。1905年にアーヴィングが死去するまで、40年余り、かたわらにあって彼を支え続けた。死後には回想録(『Personal Reminiscences of Henry Irving』 1906)を捧げている。
劇場経営の傍ら、ストーカーは30歳をすぎてから小説に手を染めるようになる。しかし初期の作品はとくに評判にならなかった。代表作となるのは1897年の『ドラキュラDracula』。夕食にカニを食べすぎ、消化不良のために見た悪夢がきっかけでこの小説が生まれたという逸話がある。ストーカーの手により、吸血鬼はヨーロッパ辺境の一伝説から世界中に広まっていった。

『ドラキュラ』が成功をおさめた後、『The Mystery of the Sea』(1902)、『The Lady of The Shroud』(1909)などの著作がある。ストーカーの死後に発表された短編集『ドラキュラの客』(1997年図書刊行会より、改訳新装版出版。桂千穂【かつらちほ】訳)の表題作は、『ドラキュラ』の草稿の一部であり、本編では割愛された挿話である。

●作品紹介

『吸血鬼ドラキュラ』

物語は英国の青年弁護士ジョナサン・ハーカーの日記から始まる。彼はトランシルヴァニアの貴族ドラキュラ伯爵の招きを受けて、ロンドンを発ち、ヨーロッパを鉄路横断、ミュンヘンからブダペストを経て、カルパチア山脈へと向かう。伯爵がロンドンに地所を購入し、移り住むにあたっての諸手続きの代行が、はじめて彼ひとりに任された重要な仕事である。ダニューブ河をこえるとそこは東ヨーロッパ。トルコの風俗習慣の影響を色濃くのこす異文化の地となる。汽車の車窓からの風景に心はずませ、香辛料(パプリカ)の効いた珍しい料理を楽しみ、美しい民族衣装に目をみはり・・・旅は順調に進み、「ヨーロッパの内でも、文明に最も遠い、世間に知られていない地方である」トランシルヴァニアに到着する*6。トランシルヴァニア地方の中心地であるビストリッツからは、馬車に乗り換え、伯爵が迎えをさしむけるというボルゴ峠に向かう。
このあたりから、物語には徐々に怪しげな雰囲気が漂い始める。彼が伯爵の客と知った土地の人々は、彼を避けるそぶりを見せ、伯爵のことを尋ねると口を濁す。さらに乗合馬車の乗客たちの妙に迷信深げなふるまいにとまどうジョナサン。そこに「いやにまっかな色をした唇に、象牙のような白い尖った歯」をしたおそろしげな風貌の御者が姿を現し、否応なく迎えの馬車へと導く・・・狼の遠吠えが聞こえ、青い鬼火のともる闇の中を黒い馬の曳く馬車は疾走する。
未知の土地への好奇心が、徐々にとまどいと不安へとかわり、やがて訪れる恐怖を予感させる。


ドラキュラ伯爵と時代背景


ホラー小説の帝王ともいうべきドラキュラ伯爵が生まれたのは、今を去ること100年前(1997年はドラキュラ伯爵生誕100年となり、世界各地でドラキュラにちなむイベントが催され、関係書籍が出版された)。ちなみに、コナン・ドイル*5によるシャーロック・ホームズの誕生に遅れること10年である。時は19世紀末、ビクトリア女王の治下(1837-1901)。大英帝国がもっとも輝いていたといわれる時代のこと。産業革命の成功でイギリス経済は発展し、活発な植民地経営と貿易によってロンドンは世界中から、人や物や情報が集まる最先端都市として栄えていた(ドラキュラ伯爵もそのロンドンに魅せられて、はるばるカルパチアの山奥から進出をはかるのである)。その繁栄の裏で、ロンドンの街中は煤煙に覆われ、スラム、売春、阿片中毒などの害悪も広がっていった。安価な大衆向けの日刊新聞が発行されるようになったのもこの頃で、ゴシップや猟奇連続殺人事件などをことさらあおるような絵入りの記事が紙面をにぎわせる。さらには「科学の進歩」の反動のように、心霊学研究などが盛んになり、降霊会が各所で催されたり、またホラー小説も流行するなど、一大オカルトブームが到来していた。小説『ドラキュラ』は、その流れにのって評判になったものである。

時代を反映するように、この小説には最新の技術や機械がたくさん登場する。ジョナサンの日記が「速記術」で書かれていることもその一つである(速記が日常生活にも普及したのは、1837年にイギリス人のピットマンの新方式によるところが大きい。その功によりビクトリア女王はナイト爵位を授与した)。
さらに後半、ドラキュラ伯爵との戦いの記録には、「蝋管蓄音機」が登場する(アメリカでエジソンが蓄音機を発明したのが1876年であるから、最新鋭のハイテク機器といった趣である)。ドラキュラと戦う、いわば「正義の」人々の中に精神科医が登場し、催眠術を駆使したりすることも新しい感覚だったのではないだろうか(精神分析学の創始者フロイト[1856〜1939]もこの時代の人)。なんと「吸血」鬼の被害者を救うために、「輸血」も行われる(ABO式血液型が発見されるのは1901年になってからのことで、この小説の執筆当時はまだ、不適合による副作用の危険のほうがはるかに大きい、無謀な治療法だったはずである)。しかし、古い伝説と迷信から生まれ、「未知の辺境」から出現した魔物に、「文明の地」の人々が対抗する手段は結局は最新の機械ではなく「にんにく」「木の杭」「聖水」であった・・・。そして物語は邪悪に打ち克つのは、いつの世も常に正しき人の心であるといった教訓で締めくくられる。



カルパチア山脈の渓谷



エスニックな恐怖、エスニックな料理

引用した文章は、この小説の導入部である。ここでは、ロンドンからトランシルヴァニア地方への旅の様子が事細かに描かれている。ビストリッツでジョナサンが泊まった「ゴルテン・クローネ・ホテル(金の王冠ホテル)」は実在するらしい。また、トランシルヴァニア地方の料理やワインの名などが(一部に不明な点のある表記ながら)、いくつも具体的にあげられている。「パプリカ・ヘンドル」はハンガリーでよくつくられる鶏をパプリカ入りのこってりしたソースで煮込んだ料理(ハンガリー語でパプリカース・チルケ)。「ママリガ」はルーマニアの農村の日常的な主食であった。「ロバー・ステーク」の名で登場しているのは、ルーマニアでフリガルイエという。トルコでいうシシケバブで、東ヨーロッパ各国の名物料理である(トルコでは羊肉だが、その他の国では子牛や豚肉も使う)。これらは今でもハンガリーやルーマニアのガイドブックに必ずといってよいほど登場する料理である。そして、今回再現した料理の一つ「インプレタタ」。
19世紀の末、科学技術はそれまでになく飛躍的に進歩をとげた。電信や電話の発明により、世界各地からさまざまな情報が豊富にまた迅速に入ってくるようになる。また、鉄道や蒸気船の発達は「旅行」をより身近なものにした。1851年に世界初の万国博がロンドンで開催されたこともきっかけになり、英国では当時、海外旅行熱が高まっていた。トーマス・クックがはじめて安上がりな団体旅行を扱う「旅行社」を興し、併せてガイドブックなどの発行を始めたのもこの頃である。小説『ドラキュラ』の導入部は、そうした時代の流れにのって、当時の読者の心をまずつかんだと思われる。
トーマス・クック社のヨーロッパ大陸時刻表が創刊されたのは、1873年。トランシルヴァニアへの旅にはジョナサン・ハーカーもこの今でも有名な時刻表を手に取ったに違いない、と夢想するのも楽しい。実際の所、『ドラキュラ』を書くにあたり、ストーカーはみずから現地に出かけたわけではなく、こうした時刻表や、旅行記やガイドブックをもとに構成したという。宿や食事など、旅の日常についての詳細な描写は、物語のリアリティを高め、あとに続く幻想的な、恐怖に満ちたできごとも、本当にあったことのように感じさせるための「仕掛け」であろう。
「エスニック料理」を楽しんだ後で、異文化の地にひそむ恐怖との出会いが用意されている。

小阪 ひろみ




*1ジェイムズ・ジョイスJames Joyce(1882〜1941)アイルランドの作家。ダブリン生まれ。代表作は『ダブリン市民』(1914)『ユリシーズ』(1922)『フィネガンズ・ウェイク』(1939)
*2オスカー・ワイルドOscar Wilde(1854〜1900)イギリスの詩人、小説家、劇作家。アイルランドのダブリン生まれ。ダブリン大学とオックスフォード大学で学ぶ。代表作は『ドリアン・グレイの肖像』(1891)『サロメ』(1893)
*3バーナード・ショーGeorge Bernard Shaw(1856〜1950)イギリスの劇作家、小説家、批評家。アイルランドのダブリン生まれ。
*4ヘンリー・アーヴィングSir Henry Irving(1838〜1905)本名ジョン・ヘンリー・ブロドリブJhon Henry Brodribb。俳優、劇場経営者。イギリスサマセット州生まれ。1895年俳優として初めてナイト爵に叙される。
*5コナン・ドイルSir Arthur Conan Doyle(1859〜1930)イギリスの探偵小説家。アイルランド人の両親からスコットランドのエディンバラで生まれる。『緋色の研究』(1887)をはじめとするシャーロック・ホームズものの他、『心霊術の歴史』(1926)などの作品がある。
*6現在『ドラキュラ』の舞台といえば「ルーマニア」と言われるが、ルーマニアが国家としての独立を宣言したのは1877年。トランシルヴァニアを併合したのは第1次世界大戦の末期である。『ドラキュラ』発表当時、トランシルヴァニアはオーストリア=ハンガリー帝国の辺境地方であった。現在でも、本国よりむしろ、ルーマニア領のエルデーイ(トランシルヴァニア)地方に、ハンガリーの昔の習俗が色濃く残っているといわれる。


ブラン城

カルパチア山脈中心部ブラショフにあり、ドラキュラのモデルになったという15世紀のワラキア(ルーマニア南部)公ヴラド4世が一時期滞在していたことから、ドラキュラ城として観光名所になっている。


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地理、歴史、観光など多岐に紹介。Tourismの中にドラキュラについて、小説、映画、ヴラド公についての詳細ページあり。

ルーマニア大使館の日本語ページ

小説『ドラキュラ』をもっと詳しく知りたい人に
トランシルヴァニアン・ソサエティ・オブ・ドラキュラ。ドラキュラの伝説や小説について幅広く研究している。リンク集が充実。
「インプレタタ」を再現するためのレシピ探しにも協力を得た。





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