食の世界を目指す新入生からの質問と、
卒業生のインタビュー
卒業生のインタビュー
自分がどのレベルまでいけるか想像できません…
高いレベルに成長するために、どんな練習・学び方をすればいいですか?
宮崎辰さん
Fantagista21 代表/メートル・ドテル
Fantagista21 代表/メートル・ドテル
エコール・キュリネール国立(現・辻調理師専門学校 東京)から、辻󠄀調グループ フランス校へ。卒業後、レストラン、ホテル勤務を経て、『ジョエル・ロブション』に転職した2010年にはメートル・ド・セルヴィス杯で優勝を飾り、2012年には、クープ・ジョルジュ・バティスト主催のサービス世界コンクール世界大会で優勝し、観光庁長官賞も受賞。2013年、NHK総合テレビ「プロフェッショナル仕事の流儀」出演。2017年に独立し、『Fantagista21』を設立。メートル・ド・セルヴィスの会の役員も務める。
サービスの上達に必要なのは、才能ではなくトレーニング。
日本で初めて世界一のメートル・ドテルになれたのも、努力を重ねたからこそ。
料理人として生きていく覚悟を決め、がむしゃらに頑張った学生時代。
小学校の家庭科の授業でつくる喜びに目覚め、将来はコックになろうと思っていた。なかでもイタリアンに心を奪われ、外国語大学でイタリア語を専攻しイタリアへ行こうと、高校3年生から予備校に通い始めた。しかし知人のイタリア料理店のシェフからの助言で、考えを改める。
「イタリア料理のシェフになりたいと話したら、『西洋料理をやるなら、フランス料理から学んだほうがいい』と言われたんですよね。それに大学へ行ってからだと、4年間の後れを取ることになる。だったら最初からフランス料理を学ぼうと、エコールからフランス校へ行くことに決めました。そのために、NHKのラジオ講座でフランス語を猛勉強。料理人として生きていく覚悟を決め、がむしゃらに頑張りました」
基礎ができて、初めて応用ができる。
エコール・キュリネール国立(現・辻調理師専門学校 東京)では、フランス料理の基本を徹底的に叩き込まれた。基礎ができて、初めて応用ができる。家でもとにかく練習し、体に染み込ませた。念願のフランス校では、語学の勉強の甲斐あって言葉も通じ、楽しい生活が送れた。
「みんなで初めて食べ歩きに行ったのは、当時二つ星だった『アラン・シャペル』でした。そのときのサービスマンの立ち居ふるまいが素敵で、シェフの高いコック帽とは別の、タキシードのかっこよさに衝撃を受けたことが今も印象に残っています」
寂しくてベッドで泣いたこともありましたが…
半年後に行った研修先は、南仏の港町、サン・トロペのレストラン。日本人は一人もおらず、フランス語で能動的にコミュニケーションをとるしかない。頼れるのは自分しかない中で、孤独を越えていく精神力を培ったという。
「寂しくてベッドで泣いたこともありましたが(苦笑)、自分はこれで生きていくしかないと思っていたので耐えられました。すると次第にお店のスタッフとも仲良くなれ、当初は早く帰りたいと思っていたのに、帰る間際には『もっと居たい』と思えるほど楽しくなって。フランスの文化を肌で感じ、強くなれました。あの経験を若い頃にできたのは大きかったですね」
将来は一流のグランシェフになるという夢があった。
そのために就職先は規模を中心に探して、東京・国分寺のレストラン『シェ・ジョルジュ・マルソー』へ。新入社員は3人ともキッチン希望だったが、「お客様の気持ちがわからければ料理はつくれない」という会社の方針により、全員がサービスからスタートした。とにかくがむしゃらに働く毎日。しかし数ヶ月が経ち、2人はキッチンに入れることになった。
「じゃんけんで決めようか、という話にもなったんですが(笑)、サービスをやり始めて数ヶ月しか経っておらず、まだ何も得ていない。今キッチンに入ったら、二度とサービスに戻れないと思って辞退したんですよ。ちょうどサービスに興味がわいてきた頃でもあったので…」
「これからサービスの時代がくる」…憧れの人の一言で心が決まった。
サービスの道も視野に入れ始めたのは、メートル・ドテルの矢野智之さんがいたからだった。完璧なまでの立ち居振る舞いでお客様を魅了する。憧れの存在だった。
「ある日、矢野さんから『これからはサービスの時代がくるから、僕と一緒に日本一のレストランをつくろう』って言われたんですよ。そこでもう心は決まりました。この人と出会わなければ、サービスの世界に入ることはなかったでしょう」
サービスの道で生きていく。思いは固まっていたが、そこには大きな関門があった。
「もともと料理人をめざし、大学受験を辞めてまでフランス校へ行ったでしょう。父親にも料理人になるなら金を出すと言われていたので、サービスをやると伝えたとき、『ウェイターをさせるためにフランスまで行かせたわけじゃない』と大激怒されて…。必ずこの業界でトップになるから、料理人ではなくサービスをやらせてくださいと頭を下げました」
父親に恩返しをするため、生活のすべてをコンクールに捧げた。
コンクールのことを知ったのは最初の職場だった。先輩のソムリエが「矢野さんは日本一のメートル・ドテルだから」と話している。なんのことかわからずあとで調べ、彼がメートル・ド・セルヴィス杯で最年少優勝を果たしていたことを知った。
「本人からは一言も聞いたことがなかったんですけどね。そこから意識し始め、コンクールで一番になれば、父親に恩返しができるのではないかと考えるようになりました」
結果を出さなければ示しがつかない。
23歳で日本ソムリエ協会の認定ソムリエになると、父親の態度は少し緩和された。その後は、六本木『グランドハイアット東京』の開業に携わり、チームリーダーとして海外のVIPを接待。メートル・ドテルとして、銀座『オストラル』、青山『ピエール・ガニェール東京』で経験を重ねた。宮崎さんのサービスを目当てに来店されるお客様も多く、父もその活躍ぶりを徐々に認めてはくれてきたが、結果を出さなければ示しがつかない。
悔しさをバネに、必死に努力を続けた。
メートル・ド・セルヴィス杯での優勝をめざして準備を始め、29歳で初出場し2位となった。しかし次こそはと臨んだ2度目の挑戦では、3位に終わる。その悔しさをバネに、必死に努力を続けた。
生活のほぼすべてをコンクールに捧げた。
「3度目の挑戦は、恵比寿の三つ星『ジョエル・ロブション』に入った2010年。練習に練習を重ね、33歳で日本一になれました。だけど、パティシエの世界一に輝いた辻󠄀口博啓さんもおっしゃっていた通り、日本で優勝しても何も変わらなかったんですよ。やはり世界を取るしかない。そこからは世界一になることが目標になり、生活のほぼすべてをコンクールに捧げました」
前へ前へという感覚で挑戦。
日本と世界とではプレゼンテーションの仕方が違う。テクニックはもちろん、人を惹きつける色気や表現力を大事にした。
「謙虚な気持ちというより、前へ前へという感覚で挑戦しました。きちんと目を見て話すのはもちろん、お勧めする際にも、曖昧な表現ではなく『これが絶対にいいですよ』ぐらいに自信をもって提案しました。努力は裏切らないというのは本当です。おかげで最高の結果が出せました」
世界一になると、広く教えを請われるように。
世界一になると、広く教えを請われるようになった。日本のサービスマンのレベルを高め、その地位を向上させたい。独立の背景には、そんな思いもあった。
「日本人のサービスマンは細やかなんですが、ダイナミックさとかっこよさが足りない。それは何も顔やスタイルの問題ではなく、立っているだけで安心感があるような、『私に任せておけばすべて大丈夫』といった雰囲気です。技術はある。次の世界チャンピオンが出るのも時間の問題だと思います」
疑問をもち、想像するプロセスを習慣づけることが大切。
「サービスの上達に必要なのは、才能ではなくトレーニングです。このお客様を知りたいとか、何を考えているんだろうとか、疑問をもち、想像するプロセスを習慣づけることが大切。サービスは、食卓を囲む方々に最高のひとときを提供できる、素晴らしい仕事だと思います。食べることは一生続くもの。会社に就職するというより、“食業”に就くといった形で一生携われるのが我々の仕事です。食には人が集まります。食にまつわる仕事をすることは、人生を豊かにすることにもなると断言できますよ」
水谷嬉々さん
KiKi オーナーシェフ
KiKi オーナーシェフ
辻󠄀調理師専門学校からフランス校へ。2012年に卒業後、両親とともに開業準備をし、愛知県名古屋市に茶懐石を主体とする料理店『満愛貴(まあき)』をオープン。スーシェフとして修業を積み、2014年4月、三重県桑名市にフュージョン料理店『KiKi』を開業。22歳の若さでオーナーシェフとなる。2015年からは『満愛貴』のオーナーシェフも兼任。現在は、若手料理人の育成に力を注いでいる。
料理の勉強にとことん没頭しましたね。
高校3年間、料理の勉強を我慢していたという気持ちがあったので…
中学入学を前に、“アートの島”としても知られる佐久島に家族で移住。
1991年、三重県桑名市に生まれた頃、父・政紀さんは自宅近くで一風変わった料理店を営んでいた。
「スタートは中華だったんですが、その盛りつけが独特で、『おいしくて美しい』と評判になったんですよ。そこからコース料理をはじめ、茶懐石をやるようになって…。両親ともに芸術が好きだったので、幼い頃から美術館に行ったり、陶芸作家のもとを訪ねたり、全国の土地を巡ったりと、いろんなものを見せてもらった記憶があります」
中学入学を前に、“アートの島”としても知られる愛知県の離島・佐久島に家族で移住、高校卒業まで過ごす。両親はそこで、食材から手づくりする料理店を営むことにした。
命をいただくことへの感謝が芽生えた、離島での自給自足の暮らし。
「畑を耕したり漁をしたり、味噌や醤油をつくったり海水から塩をつくったり、椿の種を集めて油にしたりエビスグサの種を集めてハブ茶にしたり…。自然にふれ、自給自足の生活を体験していました。釣りも大好きで、学校のある日も深夜2時ぐらいからイカを釣りに行ったりして(笑)。愛情を込めて育てた鶏をさばくことも経験。野菜や生き物、すべての命に感謝するようになりました」
プライベートな時間も、知識の吸収やスキルアップに費やした。
中学時代に料理人を目指し始め、卒業生である政紀さんの勧めを受けて、辻󠄀調理師専門学校への進学を決意。高校卒業後に入学してからは、放課後などプライベートな時間も、知識の吸収やスキルアップに費やした。
「授業中に流されるモニターの映像をデジカメで撮り、土曜にパソコンで画像編集をしてノートにまとめる…といった作業を毎週やっていました。放課後に行われている特別授業も欠かさず受講。高校3年間、料理の勉強を我慢していたという気持ちがあったので、とことん没頭しましたね」
オールジャンルを学べたことが財産に。
「同じ食材でも、和食、中華、フレンチで全く違う使い方をすることも。もともと和食を志そうと考えていましたが、今の料理スタイルから考えても、オールジャンルを学べたことが大きな財産になっています」
「もっと学びたい」という想いが高まり、辻󠄀調グループのフランス校へ
学ぶうちに「もっと学びたい」「海外で店を開くための勉強がしたい」といった想いが高まり、辻󠄀調グループのフランス校へ留学。現地の生活や文化を肌で感じ、料理がもっと好きになった。
「フランス校では、“なぜこの食材を使うのか”ということも含め、丁寧に教えてもらいました。この土地だから、こういう生き物がいて、この組み合わせが実現して、こういう料理が生まれた…といった部分まで理解でき、現在のメニュー考案につながっています」
実地研修先のシェフからとてもかわいがってもらえた。
「研修先は、帰国してからも交流のもてるシェフがいるレストランがいい」という願いが通じ、フランス東部にある一つ星『シャトー・デュ・モン・ジョリ』へ。オーナーシェフであるロミュアルド・ファスネ氏は、フランス料理の国際コンクール『ボキューズ・ドール』に参加する日本代表チームのオフィシャルコーチを務めた人物で、M.O.F.(フランス国家最優秀職人章)の肩書きをもつ。
「シェフにとてもかわいがってもらえて、M.O.F.が交流する大きな食事会や披露宴の出張料理、料理教室を手伝わせてもらったり、小学校の食育の授業やM.O.F.がいるお店に連れて行ってもらったりと、貴重な経験をたくさん積ませてもらいました」
オーナーシェフとは今もつながりがもてている。
「学びたい意欲を伝えたところ、前菜、魚、肉、デザートの部門も一通り回らせていただけて。仕込みの段階でスタッフ全員を呼び、シェフから『嬉々の仕事はきれいだろ?』と言っていただけたのも、うれしい思い出です。来日された際には会いに伺い、今もつながりをもてています」
「父と同じ厨房に立ちたい」という気持ちが強まっていった。
卒業後は、どこかの店に修業に入ろうと考えていた。しかし留学中に政紀さんと手紙をやり取りしたことで、「同じ厨房に立ちたい」という気持ちが強まっていったという。
「父は21歳で独立し、独自の道を切り拓いてきましたが、厨房はずっと一人だったんですよ。独特な感性から生みだされる父の料理を受け継げるのは自分しかいない。そこに自分の個性を加え、世界に発信できたらと思ったんです。ただ、佐久島という土地では、両親も体力的に難しくなってきていたので、桑名に戻って名古屋でお店を開こうと誘いました」
陶芸教室に通い、器づくりも始める。
2012年8月の帰国直後から両親とともに開業準備を始め、12月、愛知県名古屋市に『満愛貴(まあき)』をオープン。スーシェフとして政紀さんの料理を学んでいく。一方で陶芸教室に通い、器づくりを始めたところ、それらの作品を政紀さんがいたく気に入り、店でも使い始めるようになった。
日本最大級の料理人コンペティションで最年少受賞。
2013年には、35歳未満の料理人を対象とした日本最大級の料理人コンペティション『RED U-35』の第1回大会に出場。450名以上の挑戦者の中から、わずか16名だけが獲得できる「シルバーエッグ」を最年少で受賞した。
「卵がテーマだったんですが、『満愛貴』の料理を広められたらと考え、看板にもなっているキューブ状の一品に仕立てたんですよ。すると審査員の先生方にも面白いと思ってもらえたようで…お店のことを多くの方に知ってもらえる機会にもなりました」
チャレンジし続け、3年連続で入賞を果たす。
2014年4月には、幼少期に父が店舗を構えていた場所で『KiKi』を開業。『RED U-35』への挑戦も続け、「ブロンズエッグ」も最年少で受賞した。2015年もチャレンジし、3年連続で入賞を果たす。
「『RED U-35』で発掘した若い才能をつなぎ、その力で日本を活性化する」という目的で結成された『CLUB RED』の活動にも参加。千葉県いすみ市や三重県鳥羽市など、特定地域の食材を使ったメニューを考え、地元のレストランの人たちにレシピを提供したり、食材を取り寄せてコースをつくり自店でフェアを開催したりと、さまざまな取り組みを行っている。
各地の料理人と情報交換できるのもありがたい。
「今まで同窓生以外の料理人とのつながりがありませんでしたが、大会を通じて同じ道を進むたくさんの仲間が増えました。活動に参加することで勉強にもなりますし、各地の料理人と情報交換できるのもありがたいです。皆さんとの交流が、大きな刺激になっています」
料理人にとって、“一”を知ることはとても大切。
『KiKi』の近くに約100坪の自家農園を開設。全員で毎日、野菜や果樹を育てている。
「料理人にとって、“一”を知ることはとても大切。農家の方の大変さを体感することで、一つひとつの食材への感謝の念が学べると感じています」
子どもたちへの食育もスタートさせる。
もう一つの目標であった子どもたちへの食育も、佐久島の小学校でスタート。また、畑で育っている途中のものを見せ、それが何かをみんなで考え、実際に食べてみるというプログラムも愛知県西尾市の小学校で、2年生(約130人)に実施した。
「もともと子どもが大好きで、『何かをしてあげたい』という想いが強くあったので、自分の仕事が生かせる部分で関わりをもちたかったんです。今、給食の廃棄量も問題になっていますが、食に興味をもってもらうことで改善につながるのではと考えています」
若い料理人を立派に育て、彼らが活躍できる店舗を増やしたい。
「フランスでの研修中、日本で学びたいと考える料理人が大勢いることを知ったので、日本とフランスの料理人がお互いの地で学びあえる環境もつくれたらと思っています。食は365日、人間が命を維持していくのに不可欠なもの。そこに関われる仕事は、本当に幸せです。もっと食への興味をもつ若い人たちが増え、料理人をめざす人も増えたらうれしいですね」
小沼康行さん
オーベルジュ・ド・プリマヴェーラ オーナーシェフ
オーベルジュ・ド・プリマヴェーラ オーナーシェフ
辻󠄀調理師専門学校卒業後、東京・代官山のフランス料理店『レンガ屋』に就職。銀座『レカン』での修業を経て、山梨・河口湖町の『Fitリゾート』、長野・軽井沢の『900シティ倶楽部』の料理長を歴任。神奈川・箱根のオーベルジュ『オー・ミラドー』の調理部長を経て、1996年、軽井沢にフランス料理店『プリマヴェーラ』をオープン。2002年には宿泊施設を併設。以降、ワインセラーや姉妹店の『ピレネー』も設け、2020年には日本料理店『穏坐』と野菜料理を中心とした『ヴィーガン・プリュス』をオープン。
本気でやれば“食”の世界なら大逆転できる。
心を豊かにでき、自由で人間らしい生活ができる。
みんなで切磋琢磨しながら料理の勉強に打ち込んでいる姿に憧れた。
千葉市出身の小沼さん。高校3年の夏までテニス部の活動に明け暮れ、進路についてあまり深く考えずにいた。しかし夏休みに経験した洋食店でのアルバイトが転機となる。
「すごく面白かったんですよね。『こんな料理があるのか!』と驚きの連続。何もかもが新鮮で、世界が広がりました。その頃、好きだった『料理天国』というテレビ番組で、辻󠄀調(辻󠄀調理師専門学校)の学生寮が紹介された回を観たことが決定打に。みんなで切磋琢磨しながら料理の勉強に打ち込んでいる姿に憧れ、行ってみたいなと思ったんです」
辻󠄀調に入ったことで、「料理の道で生きよう」と初めて志が芽生えた。
会社員だった父親から、『手に職をつけたほうがいい』と言われ続けてきたことも大きかった。大阪まで体験入学に行くと、学生たちが校門の前で立って挨拶をしている。その規律性にも惹きつけられた。
「厳しそうなところが逆に良かったんですよ。近郊の学校ではなく辻󠄀調を選んだのは、格式の高さを感じたから。高校まではほとんど勉強もせず、生きる真剣味がありませんでした。だけど辻󠄀調に入ったことで、『料理の道で生きよう』と初めて志が芽生えたんです。お金もかかっていますしね。覚悟の決めどきを感じました」
モチベーションの高い友人たちに囲まれると、『自分もやらなきゃ』って気持ちになる。
「僕は不器用だったので、寮に帰っても繰り返し練習に励んでいました。寮生活も楽しかったですね。毎日誰かの部屋に行き、語り合って…。夢のような時間でした。洋食店『グリル マルヨシ』でのアルバイトも面白かったです。名物のロールキャベツを仕込ませてもらえるのもやりがいで。先生方もよくいらっしゃるお店だったから、その会話から、料理界の奥深さも感じていました」
伝説の名店での2年。
卒業後は東京・代官山の『レンガ屋』に就職。日本を代表するフランス料理店の一つで、今なお語り継がれている伝説の名店だった。
「別格な感じでしたね。暖炉があって、かっこ良くて。年に1回、ポール・ボキューズ氏が指導に来てくださるんですが、その料理姿を見るだけでも感激しました」カフェのギャルソンとレストランの厨房を1年ずつ経験した。
運命的だった人生最大の「こころの師」との出会い。
「原宿で古書店を営まれていて、いつも自転車でお茶を飲みに来られるお客様だったんですが、本当に可愛がってもらえました。どのお話も面白く、勉強になることばかり。とても食通な方で、一緒に食事をさせてもらったり美術館のようなご自宅へ遊びに行かせてもらったりしながら、料理に向かう姿勢や修業する心得など、いろんなことを教えてもらいました」
もともと俳優業にも携わり、著名人にも顔が広かった名士。彼から紹介された人々が、その後の人生の良きアドバイザーにもなってくれたという。
日本屈指のグランメゾンで、最高の見習いを目指した。
最初の就職先『レンガ屋』は、就職から2年後に惜しまれつつ閉店。紀尾井町のフランス料理店『成川亭』を経て、日本を代表するグランメゾン、銀座『レカン』へと移った。
「修業をするならグレードが高く忙しい店で数をこなしたほうがいい。そんな先輩たちからの助言を受けて志望しました。『1週間もてばいい』と聞いていて、承知のうえで入ったものの、厳しかったですね。『成川亭』ではストーブ前(温かい料理)も担当していたので、ある程度はできたんですが、どこから入りたいかと訊かれ、『最初からやります』と言っちゃったもんだから(笑)、まずは洗い場を1年間。人の3倍頑張り、最高のアプロンティ(見習い)になってやろうという気持ちで臨みました」
1日にどれだけの仕事ができるかを、楽しみながら広げていった。
「普通なら洗って返すだけのところを、同じ時間でも必ずピカピカにして返す。日々スピードを速め、時間を空けて、さらにやれることを増やしていきました」
修業とは、1日にどれだけの仕事ができるかを少しずつ広げていくこと。それを楽しみながら次々やるのと、嫌々やるのとでは、結果が格段に違うと小沼さんは言う。
集中する日々を重ねてこそ…
「すぐにステップアップしたいと、つい考えてしまいますが、1年という時間は、1日にどれだけ仕事ができるかの繰り返し。集中する日々を重ねてこそ、大きな螺旋状を描きながら上っていけるんです。当時『レカン』のシェフを務められていた恩師、城(悦男)さん(現『ヴァンサン』オーナーシェフ)からも学んだこの考えは、この道をめざす若い人たちに伝えるようにしています」
オフの時間も経験を重ねる。
1年後には、アントルメティエ(温前菜)を担当。そこから一気に頭角を現した。
「それから3年以上、味の要にもなるコンソメづくりを担うことに。洗い場にいたときから、仕込みの内容は意識して観察するようにし、いつでも対応できるよう備えていました。オードブルもすぐに任され、4人だった持ち場を2人で回すことになりました。僕がラッキーだったのは、お店を通じて知り合ったソムリエの田崎真也さんに呼ばれ、料理をつくりに行くなど、オフの時間も経験を重ねられたこと。それは最初から、高い目標を設定したからこそだと捉えています」
歳上の料理人たちをうまく引っ張っていけなかった。
『レカン』での4年半の修業を経て、山梨県の大型リゾートホテルへ。27歳にして1,000人規模の料理を仕切る総料理長に抜擢された。
「だけど世間知らずが『レカン』ばりに立ち回ろうとして、歳上の料理人たちをうまく引っ張っていけなかったんですよ。自分の感覚だけで、相手にとっては無茶な要求をして、退かざるを得なくなってしまいました」
軽井沢に訪れ、自身の経験と自然の恵みを活かした料理を表現できた。
その後は、軽井沢のゴルフ場が営むフランス料理店の料理長に。小さなレストランだったが、いいお客様に恵まれ、本気で料理にぶつかれたと語る。
「高原野菜など、軽井沢の自然の恵みに感動したのもそのときです。これまでの経験を活かした料理を、料理評論家の見田盛夫さんがご評価くださり、新聞や雑誌での紹介を通じてお客様が増えていきました」
オーベルジュとの出会いが、自分の店を持ちたいという思いを高める。
しかし4年ほど経ち、バブル崩壊の影響により閉業。先輩からの紹介を受け、神奈川県の箱根にある日本初のオーベルジュ『オー・ミラドー』へ。勝又登シェフのもと、調理部長を務めた。
「そのときにオーベルジュを初めて体験し、憧れを抱く一方で、『自分の店をもちたい』という気持ちが一気に高まりました。多くのお客様に愛された、軽井沢でなら実現できるかもしれない。そう考えて物件を探し、駅から近いこの場所でスタートを切りました」
どこにも負けない味を出せる自負はあった。
こうして1996年の初夏にフランス料理店『プリマヴェーラ』をオープン。小さなレストランだった。
「一緒に働いていた若いスタッフと妻と3人で始めました。自分は知名度もないからと、ランチ2,150円、ディナー3,600円という破格の設定で始めたんですよ。だけどこれまでの修業で、どこにも負けない味を出せる自負はありました」
破格の価格設定で本格的なフランス料理も味わえることが評判に。
オープン2年目には雑誌にも取り上げられ、破格の価格設定で本格的なフランス料理も味わえることが評判になり、瞬く間に繁盛していった。パーティ利用もできるようにと、2000年に現在のスペースを併設。2002年には近くにあった保養所を改装し、オーベルジュとして生まれ変わった。
すべてが美しく、居心地が良くて、おいしいものを味わえる場所に。
「場所が空いたときに『オー・ミラドー』を思い出し、チャレンジしてみようと思ったんです。軽井沢の駅を降りたときから、すべてが美しく、居心地が良くて、おいしいものを味わえ、また来たいと思ってもらえる時間を、どうすれば演出できるか。フランスのオーベルジュ『ラ・コート・サン・ジャック』に行ったとき、アール・ド・ヴィーヴル(Art de Vivre)、生活のすべてが芸術だという捉え方を知り、僕がめざしていたのはこれだと改めて気づきました」
母校で行った特別授業がきっかけで就職したスタッフも。
農家をはじめ生産者との付き合いも多く、ジビエ(野生鳥獣の食肉)も日常的に取り入れている。近頃は魚介類も豊洲市場から当日直送してもらえるようになった。自分たちでも畑をもち、使いたい野菜やハーブ類、豆類などをみんなで育て、ほしい大きさで収穫。いずれも旬の食材を新鮮な状態で調理している。スタッフの総勢は、今や20名以上。母校で行った特別授業がきっかけで就職したスタッフもいるという。
みんなで協力して好きな料理をつくり、お客様に喜ばれる幸せな世界。
「尊敬する恩師から、外来講師にと声をかけてもらったときは、とても光栄でうれしかったです。みんなで協力しながらお店をつくり、好きな料理が振る舞えて、お客様にも喜ばれる。こんな楽しくて幸せなことはありませんよ。小中高と、たいして勉強してきませんでしたが、本気でやれば“食”の世界なら大逆転できる。心を豊かにでき、自由で人間らしい生活ができる。そんな、若い方にとっても大きな希望を持てる世界ですよ」
江口 直樹さん
懐石料理 紀仙 店主 料理長
懐石料理 紀仙 店主 料理長
エコール 辻󠄀 東京(現・辻調理師学校 東京)卒業後、京都の日本料理店『祇園丸山』に就職。約3年間の修業を重ね、家業である東京・竹ノ塚の『懐石料理 紀仙』へ。2011年の東日本大震災を機に、在スロバキア日本国大使館の公邸料理人に就任。その後、モルディブの五つ星リゾートホテル『ソネバ・フシ』の日本食レストラン料理長、東京・銀座の天ぷら店『銀座天春』の料理長を経て、家業を後継。コロナ禍を機に国内外で活躍中。
余すところなく吸収しようと、貪欲に学ぶ。
第一線で活躍する有名シェフがわざわざ学校に来てくれ、自身のレシピを公開しながら目の前で調理してくれる。
海外の魅力に惹かれた大学時代。
「高校の修学旅行でハワイに行き、建物も食べ物も何もかもが違う、海外へ行く面白さに惹かれたんですよね。大学時代、夏休みや春休みを活用し、タイでスキューバダイビングの上級の資格まで取り、最終的にはオーストラリアでレスキューダイバーも取得。早めに単位をかなり取っていたため、日本にいる間はフランス料理店でのサービスや旅行代理店での接客などアルバイトに明け暮れ、5カ国21都市を周るヨーロッパ旅行も経験しました」
大学卒業時に進路についての岐路に立ち、“食”を選択。
アルバイト先の旅行代理店からはこのまま就職しないかと誘われた。しかし4歳上の兄がフランス料理の道に進み、家業をどうするかという問題に直面する。
「飲食と旅行、どちらの仕事もやりがいがあったので、じっくり考えてみたんです。幼い頃から厨房を見ていましたし、いろんなところへ食事にもよく連れられていましたし…。同期と一緒にスタートを切ったとき、味のことも食材のことも知っている料理人のほうが、アドバンテージが高いはずだと。また、海外へ行くたび和食は世界に通用するものだとも感じていたので、一生やっていくなら旅行代理店よりもこっちかなと思ったんです」
基礎知識をつけてから現場に出たほうがいいと考えた。
料理の道へ進むにあたり、基礎知識をつけてから現場に出たほうがいいと考えた。そこでかつて兄が通っていたエコール 辻󠄀 東京(現・辻調理師学校 東京)の辻󠄀日本料理マスターカレッジに進学。
「西洋料理を学んでいた兄から話を聴いていたので、ジャンルは違えど一択でした。第一線で活躍する有名シェフがわざわざ学校に来てくれ、自身のレシピを公開しながら目の前で調理してくれる授業があるというのが最も惹かれた点。実際に受講すると、1文字も取りこぼしたくないなと全部書き留めて。余すところなく吸収しようと、貪欲に学びました」
同じ志を持つ仲間が増えたことも大きかった。
料理の土台となる部分もイチから学べ、同じ志を持つ仲間が増えたことも大きかった。1年間の課程を経て、卒業後は京都の日本料理店『祇園 丸山』に就職。
「よく食べ歩きに行く両親から、本当においしかったと聞いていたので、夏休みに訪問。料理だけでなく個室のつくりや調度品などすべてが素晴らしく、総合芸術ってこういうものなのかと感動しました」
働き始めの1週間が最も厳しかった。
ミシュランガイドで二つ星を獲得している京料理の名店。春の桜、秋の紅葉のシーズンは多忙を極めたため、働き始めの1週間が最も厳しかったと振り返る。
「後にも先にも、あの1週間以上に大変だったことはありません(苦笑)。おかげで以降のハードルも乗り越えられました。旦那さん(店主)が美術商や骨董店などへ行かれる際には運転手も務めたんですが、その間に旦那さんの哲学や美意識なども知れ、とても勉強になりました」
日本料理は、光や音、空気感も含めて総合的にできあがるものだと学んだ。
「料理屋は、料理だけじゃなく、光や音、空気感も含めて総合的にできあがるもの。時間とともに移ろう太陽の向きにも細やかに気を配る必要があるといった貴重なお話が聴け、本当に濃い3年でした。当時の経験が、今でも自分のベースになっています」
後を継ぐ準備のためにも2006年、実家に戻ることにした。
『祇園 丸山』では、次の修業先へと移る層が多い時期だったこともあり、早くから調理の経験が積めた。しかし丸3年が過ぎた頃、父の体調が悪化。その後、回復し現場復帰はできたものの、後を継ぐ準備のためにも2006年、実家に戻ることにした。
学生のときに感じた海外の魅力と和食が結びついた。
「5年間ぐらいは父と毎朝市場に行って一緒に買い出しをし、魚のさばき方なども教えてもらいました。だけど2011年3月の東日本大震災で会食が一気に減り、売上げが急落。もう外に出るしかないと考えたとき、学生のときに感じた海外の魅力と和食が結びついたんです。最も安心安全で自分のやりたいことができる仕事はと探して見つけたのが、公邸料理人でした」
在スロバキア日本国大使館の公邸料理人に就任。
大学時代に惹かれたヨーロッパを中心に応募し、在スロバキア日本国大使館の公邸料理人に就任。2013年までに2年間、大使(在外公館長)の毎日の食事に加え、公邸等での公的会食の料理を用意した。
現地の客人にも好評でうれしかった。
「スロバキア大統領や秋篠宮両殿下の設宴も担当させていただき、本当に貴重な経験でした。スロバキアは海がなく制限があるなか、地産のものを組み込んで特色を出そうと、食材を半径50km圏内から探すことに。そのなかにウナギもあったんですが、現地ではブツ切りで焼いて、塩とレモンをかけるぐらいだったんです。もったいないなと蒲焼きにしたところ、現地の客人にも好評でうれしかったです」
懐石料理のレクチャーを企画。
さらに自ら文化行事を提案することもできたので、懐石料理のレクチャーを企画。和食がユネスコ無形文化遺産になる直前の頃だった。
日本料理を世界に広めたい。
「『日本料理を世界に広めたい』というと大げさですが、せっかく自分が行ったのなら、そこにいる人たちに知ってもらいたいなと。スロバキアの皆さんがまだ和食を全然ご存知ない状態だったので、反応がよくて面白かったです。旨味の講習をしても、昆布やカツオの味がわからないんですよ。だけど普段食べている鳥と野菜で出汁をとって掛け合わせたところ、旨味の広がりを感じとってもらえて。知らないからわからないだけで、しっかり伝えればわかってもらえるというのが、手応えのある発見でした」
まだ海外で経験を積みたいと、辻󠄀の恩師に相談。
任期を終える頃には、まだ海外で経験を積みたいと思っていた。エコール 辻󠄀 東京(現・辻調理師専門学校 東京)の恩師に話し、紹介されたのがモルディブの五つ星リゾートホテル『ソネバ・フシ』だった。
「卒業後も先生方と交流を重ね、近況は報告し続けていたんですよね。ずっとつながっていたおかげで、いただけたお話です。2013年に和食が世界遺産に登録されたことを受け、もともとアジアンレストランだったところを日本食レストランにしたいというご相談があったのだそうです」
サステナブルをいち早く提唱していたホテルで、日本料理に創意工夫を凝らす。
『ソネバ・フシ』は今でいうサステナブルをいち早く提唱していたホテル。それまでの考え方や価値観が大きく変わる経験をしたという。
「サンゴ礁の島で土もなかったんですが、毎回出る生ごみにバクテリアを加えて堆肥にして野菜を育てていたんです。川もないため、海水を水にする装置を使いつつ天然石で濾過していましたし。すべてが初めてのことばかりで楽しく、新たにシソの葉を育てたり、魚を卸しに来るフィッシャーマンには新鮮なまま渡してもらうためのレクチャーをしたりと、現地で手に入るもので日本料理をつくる工夫を凝らしました」
『RED U-35』にも挑戦。ブロンズエッグを獲得する。
在職中の2014年には、35歳未満の料理人を対象とした日本のコンペティション『RED U-35』にも挑戦。ブロンズエッグを獲得する。
「従来のコンクールとは違い、新しい価値観を評価してもらえるものだったので、今海外にいて思うことを発信したら面白いんじゃないかとエントリーして。ビデオメールでSDGs的な発言も伝えていました。チャレンジしたおかげでその後、料理イベントなどさまざまな活動の機会を得られ、知り合った料理人たちとのコミュニケーションも密になっていきました」
天ぷらの専門技術を高めれば武器にもなるだろうと…
レストランの基盤が固まり、任せられる状態になったところで帰国。東京・銀座でプレオープン中だった天ぷら店『銀座 天春』で、料理長のサポートにつくことになった。
「海外でも人気の高かった天ぷらの専門技術を高めれば武器にもなるだろうと。1年ほど経ったところで店舗を増やすことになり、料理長がタイへ行くことになったので、僕が本店の料理長に就任。2年間ほど店主としてやらせてもらいました」
さらに技術を磨くもコロナ禍に。
インバウンドでの利用が多いだけでなく、プライベートジェットの機内食を担当するなど、海外とのつながりも大きい店だった。しかしコロナ禍となり、2回目の緊急事態宣言が発出された2021年、東京・本店は無期限休業を余儀なくされる。実家の経営も厳しい状況だったため、夏には延期となった東京オリンピック・パラリンピックで選手村料理人を担当した。
日本料理の世界的な需要を改めて実感。
「これも一生に一度の機会だと思って経験しました。コロナ禍の間、実家では何もできなかったので、SNSに自分の活動をアップし、いろんな方々にダイレクトメッセージを送っていたんです。するとインバウンドのお客様から『あなたの天ぷらを食べたい』と言っていただけ、まだ需要があるんだなと実感。『飛行機の制限がなくなったら来てほしい』と言われ、マレーシアのお客様のもとを訪ねたのが始まりでした」
その際の様子をSNSに上げると、各国の富裕層から「うちでもできないか」と問い合わせが舞い込むようになっていった。
海外での出張料理を次々に展開。
ビジネスでの渡航は観光よりも先に緩和されていた。そのためメキシコからの相談者は、『懐石料理 紀仙』を訪ねてくれたという。
「カフェレストランを営むオーナーだったんですが、台をつくったから鉄板焼きをやってくれないかと。鉄板焼きは未経験だったんですけど、せっかくのオファーを断りたくない。懐石料理に活用する形でもいいかと訊ねたところ面白がってくださって」
どうすれば楽しんでもらえるというアンサーを出せるか。
「普通なら炭で焼く魚や、デザートのどら焼きまで、鉄板焼きの台だけで調理をしたんですよ。それがお客様から好評を受け、この5月には3回目を実施する予定です。そんなのは懐石料理じゃないと言われそうですが、自分の中では、オファーしていただいた方に対し、どうすれば楽しんでもらえるというアンサーを出せるかが主の部分。まずはやってみようと、鉄板焼きのこともイチから勉強して臨みました」
日本料理を提供するダイニングボート事業も。
こうしてマレーシア、メキシコ、フィリピン、ジャカルタ、モルディブなどを訪問。フィリピンでは、セブ島のホテルに立ち上げる日本食レストランを監修。2024年3月末にオープン予定だ。一方、国内での活動も別立て進行。約2年間の準備を経て、2024年からクルーズ船をチャーターして日本料理を提供するダイニングボート『KISEN HANARE』をスタートさせた。
いずれインバウンドは回復するだろうと見越して…
「モルディブにいた頃、ホテルの船にダイニングをつくるプロジェクトが設計段階にあったんです。僕自身、大学時代に2級小型船舶免許も取得していたので、船で料理をやったら面白いなと考えたんですが、今から屋形船に参入するのは難しい。そこで水上タクシーの会社に連絡し、アテンド役としてアルバイトに入って社長さんに提案してみたところ、企画に乗ってくださったんです。いずれインバウンドは回復するだろうと見越してのことでしたが、海外の富裕層にターゲットを絞ったところ、順調に引き合いが来ています」
コロナ禍中に種をまいていたことが一気に開花。
実店舗やダイニングボートの仕事もあるため、海外からのオファーは1カ月に1カ所までと制限することにした。
「2月にはノルウェーの港町で世界10カ国の料理人を集めるイベントに参加。3月にはセブ島のレストランオープン、4月には香港でのイベント、5月にはメキシコと、先々の予定がどんどん決まっています。レストランのオープンやイベントの開催に先立ち、うちの店での指導も行ったんですが、日本料理を教わりに来たいという海外の方の需要も高いことがわかってきたので、店での体験型のツーリズムも進めていく予定です」
今の時代、SNSを通じて世界中と無限につながっていける。
「とくに食を介すると、つながるスピードも速い。このままどんどん増やしたいんですが、身体が一つしかないので、自分と同じような考えをもっている料理人と協力できればなとも考えています」
日本料理はもっと自由であっていいと思う。
「海外の依頼主から言われるのは、料理人さんは『この材料がないとできない』と言われることが多かったということ。僕は制限の多いなかで調理をしてきた経験があるので、あるもののなかで自分の料理を表現するというスタンスなんです。それを良く思ってもらえているおかげで、世界が広がっていきました。日本料理は制限が多そうですが、もっと自由であっていいと思うんです」
何にでもなれるということを伝えたい。
振り返ってみても、苦しかったのは1年目の1週間だけ。あとはもう自分が楽しもうという姿勢で臨み、楽しんできたことを料理に反映させているのだと江口さんは語る。
「料理の世界をめざす皆さんは、料理人に対する固定観念があるかと思うんですが、それを払拭して何にでもなれるということを伝えたいです。一つのジャンル、一つの店舗で頑張り続ける道もありますが、入ってみたら違うということも充分にあり得ます。そこで挫折して、料理人自体を辞めてしまうのは本当にもったいない。一歩違うところへ行ったら、自分に合う可能性があるので、ジャンルレスになんでも挑戦してほしいです」
一生懸命、一つひとつの仕事に本気で臨めば、いずれ点と点がつながっていく。
「どんなことでも一生懸命、一つひとつの仕事に本気で臨んでいけば、いずれ点と点がつながっていくもの。どこに行ってもやり直しは利きますし、世界にはいろんなところがありますからね」
中岡里有子さん
Louloutte(ルルット) オーナーシェフ
Louloutte(ルルット) オーナーシェフ
大阪の辻󠄀製菓専門学校(現・辻調理師専門学校)を卒業後、雑貨と飲食の複合ブランド『アフタヌーンティー』のティールームに就職。友人に誘われ、カフェの設立に関わり、1996年11月の開業時よりデザートを担当。そこでパンづくりに目覚め、いくつもの製パン店で修業を重ねる。その後、企業のパン事業復興やインストアベーカリーの建て直しに携わり、2007年渡仏。2店のブーランジェリーで約4年間修業し帰国。2013年10月、大阪市西区にブーランジェリー『ルルット』を開業。
興味のある内容だったから、めちゃくちゃ面白かった。
少しも無駄にしたくないと授業は必死に受けました。
とにかく短大へ行けと…
「高校2年生になり、まわりの友人たちから大学進学の話が出るようになったが、学びたいこともない。「自分は何をやりたいんだろう」と考えたとき、浮かんだのが製菓の道だった。
「つくること全般が好きだったんですが、なかでもお菓子に興味がありました。だけどいざ三者面談で話しても、親にも先生にも反対されて…。『とにかく短大に行け』と」
製菓学校への進学を反対されるも、「学費は自分で払うから」と説得。
その後、新聞広告で見かけた辻󠄀製菓専門学校(現・辻調理師専門学校)の体験入学へ行き、想いはますます強まった。歳の離れた兄に相談すると、「やりたいなら行けばいい」と後押しされ、「学費は自分で払うから」と両親を説得。自ら教育ローンを組んで進学した。
「少しも無駄にしたくないと授業は必死に受けましたが、興味のある内容だったから、めちゃくちゃ面白かったです。洋菓子、和菓子、製パンそれぞれ学べましたし、ケーキも毎回、1人1台つくれてやりがいがありました。アルバイト先に持って行くと、すごく喜んでもらえたのもうれしかったです」
あるとき偶然、とても良いバゲットが焼けた。
卒業後は、雑貨と飲食の複合ブランド『アフタヌーンティー』のティールームに就職。大阪梅田・阪神百貨店の店舗に配属され、製菓だけでなく、料理やパンも手がける。その際、今につながる体験もあった。
「あるとき偶然、とても良いバゲットが焼けたんですよ。みんなが『どうやったの!?』と集まってきたんですが、自分でもわからない(笑)。食パンはいつもおいしく焼けるのに、ハード系は毎回思うようにならなくて…。当時から、そういったところがこの仕事の魅力だと感じていました」
阪神・淡路大震災を体験して人生観が一変。世界を広げたくなった。
やがて神戸旧居留地の店舗へ異動となるも、1995年1月、阪神・淡路大震災に直面。独り暮らしをしていた北野坂のアパートで被災する。非日常の世界を見た衝撃はあまりにも大きかった。今のうちに世界のいろんなところを見たいと考えて退職。興味のあったニューヨークやニューオリンズ、ベトナムへと旅に出た。
その時々で今やるべきことを考えるように。
「若くして年上のアルバイトの人たちを管理する立場だったので、コミュニケーション力も鍛えられましたが、大変さもあって…。1回死んだと思ったらなんでもできるだろうと飛び立ちました。とてもいい会社だったし、今も当時の同僚たちとつながっているほど、恵まれた環境だったんですけど、命に関わる経験をしたことで、その時々で今やるべきことを考えるようになりました」
カフェメニューのための研修でのめり込み、パンの道へ進もうと決意。
帰国後、カフェを始めるのにデザート担当を探していると友人から誘われた。立ち上げメンバーの一人となり、1996年11月、カフェブームの先駆けとなった『コンテンツレーベルカフェ』を大阪市内にオープン。そのなかでパンもやりたいと、神戸の『フロイン堂』へ研修に行ったことが分岐点となる。
「機械を使わず、桶の中で手ごねして、石窯で焼くんですが、ものすごく面白かったんですよ。そこで決定的にのめり込み、パンの道へ進もうと決めたんです」
本格の製パン店で修業を重ねる。
こうして『ブーランジェリー・アルション』や『パンの小屋』、『パン工房 青い麦』など、大阪を中心とした本格の製パン店で修業を重ねるようになる。ゆくゆくは自分の店を開きたい。そう考え始めていた頃、パン事業を復活させるため職人を募集していた企業へ入社。唯一の社員として、セントラルキッチンでパン製造をイチから始めることになった。
スーパーの中にあるベーカリーの立て直しに挑戦。
「だんだんと軌道に乗り、店舗も大阪市内5カ所にまで増え、いい勉強になりました。だけど会社の経営が行き詰まって…。解雇にあたり仕事を選ばせてもらえたので、将来の独立開業を見据えて、スーパーの中にある赤字経営だったベーカリーの立て直しに挑戦することにしたんです」
店舗数を増やすまでに成功。経営は順調だったが…
いざ店長になってみると、改善の余地が多くあった。これまでの経験を活かしつつ試行錯誤し、店舗数を増やすまでに成功。経営は順調だったが、業態上、中岡さんがめざすハード系のパンが売れる状況にはならなかった。
「5年ほど頑張りましたが、やはりインストアベーカリーでは求められるものが違います。両親を雇ってもらうことを条件に店をオーナーに引き渡し、いつかは行きたいと考えていたフランス修業へと旅立ちました」
片言でも研修できる店を飛び込みで探し続けた。
2007年、学生ビザで渡仏。片言でも研修できる店を飛び込みで探し続け、店舗数が多く人手が必要だったパリの大手『ル・グルニエ・ア・パン』へ。語学学校に通いながら1年弱、見習いとして働いた。
「バゲットがとてもおいしい店だったんですよね。大統領に食べてもらう年1回のコンクールでも優勝していて。今もその製法を活かしています」
旅行でフランスを訪れたときから惚れ込んでいた店へ。
その後、旅行でフランスを訪れたときから惚れ込んでいた『デュ・パン・エ・デジデ』にアプローチ。3カ月の試用期間を経て、良ければ就労ビザを取ってくれるという条件を快諾した。
「エスカルゴやクロワッサンなど、種類は少ないんですが伝統的な作り方をしていて、ものすごくおいしかったんですよ。3カ月間は無給でしたが、運良く採用してもらえました」
言葉はつたなかったが、技術面は高く評価された。すでに日本で店舗経営を経験していたおかげで「店のために」働くことができ、オーナーシェフから絶大な信頼を得る。
“自分の店”として動いたことで、信頼関係が築けた。
「“自分の店”として動けば、自然と信頼関係ができる。海外で成功するかどうかは、そこだと思います。認められれば毎月少しずつ給料が上がっていくのがフランスの制度。私から何も言わなくても、頑張れば頑張るほど、惜しみなく上げてくれました。フランスって、おいしいお店には大抵日本人がいるんですよね。だからシェフも外国人は日本人しか採りませんでしたし。それもこれも先輩方が頑張ってくださったおかげ。日本人の活躍ぶりが誇らしかったです」
濃密な約4年間の修業を経て帰国し、物件探しを始める。
ハード系のパンが売れるエリアであることを軸に、ようやく見つけたのが今の場所だった。
「たっぷりと日が差す角地が、まさに理想的でした。経営的には駅前のほうがいいですが、なるべく家賃は抑えたくて…。近くにワイン屋さんがあるし、あとから知ったんですが、ビストロも結構あって。お店用にも愛用してもらっています。どの駅からも歩いて10分ほどかかってしまう場所ですが、わざわざ遠くから買いに来てくださる人たちも増えていきました」
材料にはこだわりたい。だけど毎日食べてほしいから、なるべく低価格で提供したい。
家賃を抑えたかったのは、そのためが大きかった。フランスの伝統製法を守りながらも日本人好みに合わせたハード系のパンを軸に据えつつ、ソフトなパンも多彩。お客様の要望に応えようとするたびに種類がどんどん増えていったという。
大好きなパンづくりをし、大好きなお客様と関われて、毎日が幸せ。
「お店に来て30分ぐらいしゃべっていかれるお客様も多いんですよ(笑)。私たちもみんなおしゃべりが大好きだから、とにかく楽しくて…。『こういうのが食べたい』と言われたものが、だんだん増えていった感じです。人とつながれるのは、お店を開いてこそ。大好きなパンづくりをして大好きなお客様と関われるから、毎日が幸せですよ」
母校出身のスタッフが持って来た学生時代のノートが…
スタッフは5人(取材時)。そのうち2人は母校の卒業生だという。
「2人ともつくるのが好きだから、すごく助かっています。基礎的なことが共通認識としてあると指示も伝わりやすいし、安心感が違います。いろんな国の伝統的なレシピを、ちゃんとした材料を使ってつくれるよう学んだから、きちんとベースができるんですよね。先日、そのうちの1人が実家にあった学生時代のノートを持って来たんですが、今見てもパンづくりに応用できることが書いてあって。当時のメモ書きも役に立っているんですよ」
地域とのつながりも大切に。
お客様やスタッフはもちろん、地域とのつながりも大切にしている中岡さん。近隣小学校の社会見学にも協力しているという。
「知ればのめり込む子だっていると思うので、触れられる機会をより多くしたいんですよ。『面白そう!』と思ってもらったらやりがいがあります」
金銭的な問題で諦めてしまうのはもったいない。
やってみたくても、親御さんに反対されたり、金銭的な問題があったりもするでしょうが、それで諦めてしまうのはもったいない。『それでもこの道に進むんだ!』という意志さえあれば、あとから自分で学費を払うことも充分にできますから」
何故同じ道に進む人を増やしたいのか。
同じ道に進む人を増やしたいのは何故かと訊ねると、「それだけ面白いから」だと即答。
「好きなことを仕事にしたら一生続けられることを実感していますからね。私の場合、歳をとったら、厳選したパンを料理と一緒に提供できるお店をのんびりやっていきたいなって考えています。自分のお店をもてば、働く時間帯も形態も自由にできますし。やろうと思えば柔軟性をもってずっと続けられる仕事なので、かなり“強い”と断言できますよ」
徳岡壮平さん
Dexter Diner オーナーシェフ
Dexter Diner オーナーシェフ
高校卒業後、機械部品を製造する地元企業に就職。3年後、エコール 辻󠄀 大阪 辻󠄀カフェフード・スイーツマスターカレッジ(現・辻󠄀調理師専門学校)に進学。卒業後、イタリア料理店を経て、『グレイトフルバーガー』、『キッチンサンサーラ』でハンバーガーの修業を重ねる。2015年より、家業である洋食喫茶店『古時計』に約3年間勤務。2018年6月、大阪・中崎町に『Dexter Diner(デクスターダイナー)』を開業。
意識の高いクラスメイトの存在は刺激になった。
いろんな人がいて楽しかったです。基本をしっかり学んでから応用に入れたのも良かった。
料理は好きだったが、将来の仕事にするとは考えていなかった。
高校に入ってからも趣味としての料理は楽しんでいたが、仕事にするという発想はなかった。卒業後は機械部品などを製造する地元企業に就職。働きやすさはあったものの、工場での仕事にやりがいを見いだすことができないまま2年目を迎える。
「『このままでいいんだろうか』という不安が募っていった3年目の秋頃に、親父が病気で入院して…。1~2カ月、店を開けることができなくなったんです。そのとき、今の仕事で家族を養うのは無理があるなと感じて。ゆくゆく自分が実家を継げば、これまでの生活は保てる。だったらまずは、自分が楽しいと感じていた料理のことを勉強しようと、調理師学校のパンフレットを片っ端から取り寄せました」
資料を読み比べ、名店で働く卒業生の姿にも憧れて、進学を決めた。
「父の下ですぐに働くという道もありましたが、ちゃんと学んで選択肢を広げる必要があると感じていました。資料を読み比べ、名店で働く卒業生の姿にも憧れて、進学を決めました」
進学したのは、西洋料理、スイーツ、パン、ドリンクと幅広く学べる、エコール 辻󠄀 大阪 辻󠄀カフェフード・スイーツマスターカレッジ(現・辻󠄀カフェ&パティスリーマスターカレッジ)だった。カフェを開きたいという目標をもち、大学卒業後や就職後に進学する人も多かったという。
『この工程に、なぜこの作業が必要なのか』といった理由を知れたことが今に活きる。
「いろんな人がいて楽しかったです。意識の高いクラスメイトの存在は刺激になりましたし、基本をしっかり学んでから応用に入れたのも良かった。『この工程に、なぜこの作業が必要なのか』といった理由を知れたことが今に活きています。授業後に教室が解放されている日には、包丁を研ぐ練習、お菓子の絞りの練習、食材を切る練習などが、放課後にできるのもよかった。僕がとくに力を入れたのはラテアートの練習。アルバイトのない日はほぼ入らせてもらったんですが、付き添いの先生方に質問もしやすく、グラスをぴかぴかに拭きあげる方法など細かなこともそんな時間で教えてもらえました」
何事にも妥協をされないシェフの姿勢に感化された。
在学中のアルバイトは、ピザ店での調理作業。その経験から、ピザをメインとしたイタリア料理店『オステリア・ピッツェリア アルベロ』に就職した。
「なるべく実家に近いエリアで探し、兵庫県姫路市にある名店を選びました。イタリアンなら好きだったコーヒーやパスタを扱うこともできると考えたんです。でもそこで仕事の厳しさを痛感して…毎日怒られてばかりだったんですが、今思えばよくあれぐらいで済んだなと思うぐらいです(苦笑)。何事にも妥協をされないシェフの姿勢に感化されましたし、甘かった自分を鍛えてもらえました」
衝撃を受けたハンバーガーの味が忘れられず、転身することを決めた。
お店の連休中に出向いた東京で転機が訪れる。
「目的はイタリア系のバルを巡ることだったんですが、途中、『フェローズ』っていうハンバーガー屋さんに立ち寄ったんですよ。もともと好きだったアメカジの本で紹介されていたから気になっていて。食べてみたらもう衝撃的においしかったんです。ファストフード店のハンバーガーとはまったく違う、知っている名前なのに知らない味で…。『一体これは何!?』と心底驚き、めちゃくちゃ惹かれました」
以降、休日には兵庫県内のハンバーガー店を巡るようになる。食べれば食べるほど、「自分でもつくってみたい」という気持ちが高まっていった。
短いながらも節目まで面倒を見てもらえたことに感謝。
「もともとアメリカの古い映画が好きだったんですよね。家具なども含め、アメリカンカルチャーが好きだったから、どんどんハンバーガー店に心が傾いてしまって…。冬前、シェフにそのことを伝えると、自分のためにも1年間は続けろと。スタッフに愛情のある方だったので、短いながらも節目まで面倒を見てもらえたことに感謝しています」
一種類に偏らず吸収できたのも良かった。
春からは、兵庫県加古川市の『グレイトフルバーガー』と姫路市の『キッチンサンサーラ』、2つの店舗でハンバーガーのイロハを学び始めた。
「『グレイトフルバーガー』はすべて手づくりされているので、何もかもが勉強になりました。『キッチンサンサーラ』は洋食店なんですが、ハンバーガーの移動販売もされていたので、そのノウハウも学びたくて。一種類に偏らず吸収できたのも良かったです。ただ、どちらも忙しい時間帯に入る短時間の勤務だったので、ほかにもアルバイトをかけもちしていました。一時期、朝はパン屋さん、お昼はハンバーガー、夕方はカフェ、夜はバルなんてこともありましたね」
家業の洋食喫茶店『古時計』で働く。
「帰宅後は自宅でハンバーガーの試作もしていましたからね。ちょっと限界を感じ始めていた頃、実家から『お店を手伝ってくれないか』と連絡があって、帰ることにしたんです」
こうして2015年の春から『古時計』で働くことに。父が調理、母が調理補助、姉やアルバイトスタッフがホールを担当するなか、あらたにエスプレッソマシーンも導入し、コーヒーをメインにホールや洗い物をかけもちした。そんな中、あいた時間でハンバーガーの試作も続けていた。
すべて手づくりだった評判が広まり、新たなステージへと進むことに。
パティには、『古時計』のハンバーグでも使っていた地元のブランド牛「黒田庄和牛」を使用。バンズやソース、ベーコンまでも手づくりにこだわった。1個1,000円もする手づくりハンバーガーに馴染みのない地域だったが、耳の早いブロガーらの発信により噂は瞬く間に広がっていった。
わざわざ遠くから食べに来てもらえるように。
「バンズまで手づくりしているところや、パティに和牛を使っているところが注目してもらえたようです。徐々に地元の人たちにも浸透し、わざわざ遠くから食べに来てもらえるようにもなりました。バンズは有名なパン屋さんから一度、仕入れてみたんですが、自分の思っている味ではなくて…。やるからには理想の味に近づけたかったんですよね」
もっとたくさんの人に食べてもらいたいと、都心部での独立を決意。
各地のハンバーガー店にもどんどん足を延ばし、改良を重ねていく。横のつながりも広がり、学べることも増えていった。やがて3年近く経ち、「もっとたくさんの人に食べてもらいたい」と、都心部での独立を決意。2018年1月には、大阪市内の中崎町にある現在の物件を見つけた。
自分一人で調理が行き届くよう、小さいお店が良かった。
「もともとかき氷屋さんだったところなんですが、2月に閉店するという物件情報を運良くすぐに見つけられて。より地域を盛り上げたいという大家さんの意向もあって、家賃も予算内で借りられました。もともと買い物ついでに若い人が立ち寄る場所がいいなと、古着屋さんの多い神戸元町から探し始めたんですが、中崎町も近い雰囲気でしょう。自分一人で調理が行き届くよう、小さいお店が良かったので、何もかもが理想的でした」
自分の好きなテイストを詰め込んだハンバーガー店をオープン。
中崎町は大阪・梅田駅からも徒歩圏内。レトロでお洒落な店も多く、若者や旅行客にも人気のエリアだ。その一角に2018年6月、自分の好きなテイストを詰め込んだハンバーガー店『デクスターダイナー』をオープン。その立地の良さやインスタグラムによる発信なども手伝って、集客は徐々にアップしていった。
ハンバーガーはおいしいだけでなく楽しい。
「自分のやりたいことだけやれて、生活できたらいい。だから全部が手づくりです。最初、サラダのドレッシングは既製品で、ポテトは冷凍だったんですが、モヤモヤしてしまって(笑)。やっぱり手づくりのほうがおいしくできますからね。ハンバーガーはおいしいだけでなく楽しい。かぶりついたときの幸せ感で、童心に帰れるところも大好きなんです」
今でも教科書を見返して参考にしている。
増えつつあるリピーターにもより喜んでもらえるよう、期間限定のメニューも用意。何かをつくり、試行錯誤を繰り返すことで、よりおいしく仕上げていくという過程が、やはり好きなのだと振り返る。
「試作してバチッとはまったときが面白いんですよね。中学時代から変わらない原点です。そのためにも専門学校で学んだベースは大きい。何が足りないのか、何を変えればいいのかと察しがつきますし、今でも教科書を見返して参考にしています」
相談できる仲間ができたことも大きい。
「しんどいときに相談できる仲間ができたことも大きい。最初から実家で働いていたら、小さい世界で誰にも頼れず腐っていたかもしれませんね…」
「やってみたかった」で終わらせず、今、チャレンジしたほうがいい。
「食の業界が気になっているなら、まずは一回やってみたほうがいい。これから何十年も働かないといけませんからね。『やってみたかった』で終わらせず、やれる今、チャレンジしたほうがいいと僕は思います」
辻調で学んだことで今につながっていることは何ですか?
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