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『土曜日の午後』 アントニオ・タブッキ



トルテッリ



つぎの土曜日の昼食に、母さんはリコッタ・チーズ入りのラヴィオリをつくった。リコッタ入りのラヴィオリはしばらく食べてなかったので、どんなものだったかほとんど忘れかけていたほどだ。もう、何か月も身の毛がよだつほどありふれたものしか食べてなかった。その日、母さんは、すごく早起きして、ぼくが6時に目をさましたときには、もう台所で、しずかに動きまわっている音がした。すばらしい朝だった。ぼくとネーナが起きていくと、台所のテーブルは手打ちパスタがもう切って、ひろげてあり、あとは貝の形をした型で、抜いていけばいいのだった。そして、リコッタを中に入れる。ぼくたちは、カフェ・ラッテをラジオ台のところで飲んでから、大急ぎでパスタを打ち抜く仕事にとりかかった。いや、型で抜く係はネーナで、ぼくがそれにリコッタを入れて母さんにわたすと、母さんは、ちょっとヒダを入れてから、縁をかるく指で押して、口を閉めていった。うっかりしてすこしでも力を入れすぎると、中身がはみだして、ラヴィオリがだめになってしまうのだった。


(須賀敦子 訳/白水社)


●作者紹介

アントニオ・タブッキ Antonio Tabucchi。
1943年、イタリアのピサに生まれる。1975年に処女作『イタリア広場』を発表。ジェノヴァ大学のポルトガル文学の教授でもあり、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの研究者としても高く評価される。

1992年にフランスのアラン・コルノー監督によって『インド夜想曲』(1984)が映画化され、イタリア以外でも広く支持を集めるようになる。『供述によるとペレイラは』(1994)で、イタリアの文学賞の双峰とも言うべきカンピエッロ賞とスーパー・ヴィアレッジョ賞を同時受賞し、現在イタリアで最も読まれる作家のひとりとなった。

他に小説『島とクジラと女をめぐる断片』(1983)、『遠い水平線』(1986)、『夢の中の夢』(1992)、『レクイエム』(1992)等がある。

Antonio Tabucchi

●作品紹介

『土曜日の午後』

タブッキの3作目にあたる短編集『逆さまゲーム』(1981)のなかの1編。

主人公である「ぼく」の目を通してみた、父親のいないある夏の日々の物語。「あの事件」が起きてから、「ぼく」と母親と妹のネーナは世間と隔絶した生活を送っている。単調な毎日の繰り返し。そんな毎日に退屈しているネーナ。どこか気弱になっている母親を気づかいながら、ラテン語の活用を覚えることで気を紛らわせている「ぼく」。それでも父親の不在は、時折泣きたい気分となって「ぼく」を襲ってくる。

ある土曜日の午後、ネーナがひとりの人物を見かける。それを聞いた「ぼく」にはそれが誰なのかがわかり、母親がその人物に会いに行くであろうことをも予感する。けれども「ぼく」は「そのこと」に気がついていないふりをしてしまい、その日、母親が出かけて帰ってくる一部始終を、窓辺にたたずんだまま声をかけることもできずに見ているだけだった。



反対側にひそむ世界

「ものごとの、なんのことはない裏側」ロートレアモン

短編集『逆さまゲーム』の最初に記されているこの言葉が、収録されている全ての作品の根底を流れている。「表には裏がある」という一見あたりまえのことを人はしばしば忘れてしまう。そして自分に見えている側からだけで物事を判断してしまうことがどれほど多いか。タブッキのいう「反対側からものを見ようとする」人たちを描いたこの本は、この事実を改めて認識させてくれる。

『土曜日の午後』も世間の人々とは反対側に立たされた家族の物語で、「ぼく」の父親は何らかの ― おそらく人からそしりを受けるような ― 事情で家を空けている。しかし詳しいことは物語の中で何も語られない。父親に何が起こったのか、家族がどういった状況に立たされているのか、そしてネーナが見かけた「ハンカチの四すみをしばって、帽子みたいにかぶって、自転車に乗ってた」人物についても。ただ「ぼく」の視線で見えるものごとが語られているだけである。読み取れるのは息が詰まるほど静かな夏の情景、そして胸を締めつける「ぼく」の想い。



リコッタ入りのラヴィオリを作りながら母親が何気なく言った「今日はとくべつな日」の意味が「ぼくは、正確にはなぜかわからないまま」、それでもこれから起こるであろうことを理解する。そして気がつけば私たちも、反対側の世界にいる「ぼく」に寄り添い、何が起こっているのか、その人物が誰なのか“正確には”わからないまま全てのことに納得している。


近藤乃里子