『山の音』 川端康成 |
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さざえと銀杏とを菊子に渡して、信吾も菊子のうしろから台所へ行った。 「砂糖水を一杯。」 「はい、今お持ちいたします。」と菊子は言ったが、信吾は自分で水道の栓をひねった。 そこに伊勢海老と車海老とがおいてあった。信吾は符号を感じた。さかな屋で海老を買おうかと思った。しかし、両方とも買おうとは思いつかなかった。 信吾は車海老の色を見て、 「これはいい海老だね。」と言った。生きのいいつやがよかった。 菊子は出刃庖丁の背で銀杏を叩き割りながら、 「せっかくですけれど、この銀杏は食べられませんわ。」 「そうか。季節外れだと思った。」 「八百屋に電話をかけて、そう言ってやりましょう。」 「いいよ。しかし海老にさざえは似たもので、蛇足だったね。」 「江の島の茶店。」と、菊子はちらっと舌の先きを出しかかった。 「さざえは壷焼ですから、伊勢海老は焼いて、車海老はてんぷらにいたしましょう。椎茸を買ってまいりますから、お父さま、そのあいだにお庭のお茄子を取っていただけません?」 「へえ。」 「小さめのを。それから、しその葉のやわらかいのを少し。そうか、車海老だけでよろしゅうございますか。」 夕飯の食卓に、菊子は壷焼を二つ出した。 信吾はちょっと迷ってから、 「さざえがもう一つあるだろう。」 「あら、おじいさまとおばあさまとはお歯が悪いから、お二人で仲よく召しあがるのかと思いましたわ。」と菊子は言った。 |
(川端康成/新潮文庫) |
●作者紹介 川端康成。1899(明治32)年、大阪に生まれる。一高を経て、東京帝国大学国文科卒業。1921年、第六次「新思潮」を発刊し、そこに発表した『招魂祭一景』で菊地寛に認められて文壇にデビュー。新感覚派作家として出発し、根底には東方の虚無思想が流れる独自の文学を貫いた。1968(昭和43)年、日本人初のノーベル文学賞受賞。1972年4月、仕事部屋でガス自殺を遂げた。他の作品に『雪国』『古都』『伊豆の踊り子』などがある。 |
●作品紹介 『山の音』 1949(昭和24)年9月号の「改造文芸」に『山の音』を掲載したのを皮切りに、「群像」「新潮」「世界春秋」などの各誌に別々の題名で書きつがれて発表され、1954年に完結し、『山の音』として筑摩書房から刊行された。 ある夏の寝苦しい夜、信吾は地の底から響いてくるような音を耳にした。山から聞こえたこの音を、信吾は死期の予告を受けたかのように感じて恐怖におそわれた。今年62歳になる彼のまわりでは、友人の訃報も続く。 |
「美」と「犯」の世界 信吾は会社からの帰り道、珍しくさかな屋の前で立ち止まり、旬のさざえを買った。店の主人に「おいくつ。」と聞かれ、何となく「三つ。」と答えた。息子の修一が、今日は他の女のもとへ行っていることを知っていたからだ。無論、菊子はそれを知らずにいる。いや、感づいているが知らない風を装うしかないのである。 食卓を囲む三人。菊子はさざえの壷焼を、信吾と保子の二人に一つ、自分に一つというように分けた。それを見た信吾は、さざえをもう一つ持って来るように言ったが、内心、菊子の機転のきいた行動に感心していた。 もし、菊子が自分は遠慮して修一のために一つ残すとか、自分と保子で分けると言ったとしたら、信吾は居たたまれない気持ちになったであろう。その気持ちを察してか、無邪気そうに「おじいさまとおばあさまは、お二人で仲よく召しあがるのかと思いましたわ。」と菊子は答えたのだった。 実際には結ばれない舅と嫁の間の恋情。 しかし、その感情は菊子の清らかさでおしやられ、禁域がおかされることはない。 官能に迫るような感情が、繊細な文章のうちに非常にデリケートな形で描かれた作品である。 |
人は人生の晩年を迎えたときどう思うのか。忍び寄る「老い」からは逃げられない。 信吾はもの忘れや身体の変化で、自らの老いを痛切に感じる。その反面、想像力の世界では若々しい欲望が目覚めてくる。老いに対する抵抗か、それまでの抑圧から解き放とうとする心の動きか・・・。夢で娘を抱擁したり、慈童の能面を艶めかしいと感じて接吻しかかったりという行動に、信吾は自分のうちにゆらめくものがあるからだと認める。こうして、菊子への思いはさらにかき立てられていく。
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