www.tsuji.ac.jp 辻調グループ校 学校案内サイト www.tsujicho.com 辻調グループ校 総合サイト blog.tsuji.ac.jp/column/ 辻調グループ校 「食」のコラム



さざえの壷焼

「山の音」川端康成
(作品紹介のページへ)






| 作り方 |


殻にさざえの身と肝、うどを詰め、だしを注いで殻ごと炭火で温めます。今回は、だしにみそを加えて風味よく仕上げました。





料理を再現した人 : 日本料理教授 小谷良孝

この『山の音』では、昭和20年代の日本の中流家庭の日常生活が細かく描写されている。特に食べ物に関する記述が多く、この時代の食生活を知る事が出来る。
主人公の尾形信吾は信州出身で、東京にある会社の取締役以上の地位にあり、鎌倉に家庭を構えている。食生活を取り上げてみると、朝食には「ご飯」、「味噌汁」、「生卵」、「かれいの干物」などが用意され、昼食には会社の近くの洋食屋に出かけたり、社用で料理屋へ出かけたりしている。夕食も社用の宴会で料理屋に出かけたり、友人と洋食屋に出かけたりしているが、家では今回取り上げた「さざえの壷焼」の他に「伊勢海老の焼物」、「車海老の天ぷら」を食したり、晩秋には「鯛ちり」、「落あゆの塩焼」などが食卓に上がっている。またお正月には「屠蘇」と「お雑煮」でお祝いをし、重箱には「田作り」、「数の子」、「伊達巻」、「煮染め」などが詰められていたようである。この時代(多分昭和23年の7月から昭和24年の10月の間と考えられる)はまだ食料の供給も滞っていたと思われるが、主人公の家はかなり贅沢な生活をしていたようである。

今回取り上げた「さざえの壷焼」と言えば、海水浴を思い浮かべる方が多いと思われる。盛夏の海水浴場に行った時、海辺の休憩所の軒先で、炭火に金網をのせ、生きたままのさざえを殻ごと焼き、蓋が開けば醤油を垂らして再びグツグツいってくれば皿に取る。爪楊枝などを身にさし、殻をまわしながら抜き取って食べる。海でひと泳ぎして海岸に上がると、この「さざえの壷焼」の醤油と貝汁が混ざって、炭火に滴ってこげた香りが小腹のすいた食欲をかきたてて、ついついワイルドに貪り食ってしまうものである。

小説の中で主人公の尾形信吾は昭和23年7月22日(木)、会社の帰りに帰宅客で混んだバスを避けて鎌倉駅から自宅まで歩く事にする。その途中にある魚屋に立ち寄ってさざえを購入し、魚屋の主人親子に身を殻から出してもらい、身を切って各々の殻に戻したものを持ち帰っている。

料理屋で「さざえの壷焼」を作る時は、食べやすくするために殻から身を取り出して適当な大きさに切って、副材料の銀杏、しいたけ、筍、三つ葉などの野菜と共に殻に戻し、酒、みりん、塩、醤油で味付けしただし汁を注いで火にかける。それをアルコールを染み込ませた塩を敷いた皿にのせて火をつけたり、炭の入った小さなコンロなどにのせたりして提供する。ただ貝類は火の通し方が難しく、火が通りすぎるとかたくて食べづらくなるので注意しなければいけない。

この小説では家庭の夕食のおかずとして出しているので、さざえを殻ごと炭火にかけて、仕上げに醤油を垂らしただけのごくシンプルな「壺焼」と考えられるが、ここでは料理屋風に調理してみた。ただ副材料はうどのみにし、風味を良くするために味付けに少量の味噌を加え、香りに少量の生姜の絞り汁を垂らした。

料理屋ではさざえの身を取り出すために「貝むき」を使って身を手早く取り出すが、家庭ではなかなか出来ないので、簡単な方法を紹介しておく。小さめのボールに少し水を張って割り箸を2本渡し、さざえを殻の口を下にしてうつ伏せにのせてしばらくおくと、水を欲しがって身を自然に乗り出してくる。この時に殻と蓋をしっかり持って手早く引くと簡単に殻からはずす事が出来る。

ちなみに、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、妻の北条政子と熱海の伊豆山神社に身を寄せていた時に、地元の人が「さざえの壷焼」をさしあげたところ、『戦いを前に幸先の良い肴である。』と喜ばれて賞味されたという逸話があり、毎年8月8日・9日には伊豆山漁港・伊豆山温泉周辺で「さざえ祭り」が開催され、「さざえの壷焼」が振る舞われている。








辻調グループ 最新情報はこちらから