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ちょっとだけ前田家の歴史

沢の歴史を語るときに、前田家のことを抜いては語れません。「加賀百万石」と呼ばれる文化都市を築いたのは、前田家歴代のお殿様達なのですから。前田家の歴史そのものが、加賀のつまり金沢の歴史といえるでしょう。

まず、「加賀百万石」とは、どういうことでしょうか。石高(こくだか)というのは、大名の支配している領地の大きさを表します。現在は金本位制ですが、江戸時代は米本位制なので、米がお金に換算され、米を収穫できる領地をどれだけもっているかが、財力の基準になっていたのです。大名の中では、加賀藩は断然トップでした。ちなみに江戸幕府は八百万石でした。つまり、それだけ財力的に豊かであったことを表します。一万石以上が大名と呼ばれていましたから、加賀藩の家来の中には大名クラスの家来がたくさんいました。いかに大きな藩であったかが理解できるでしょう。

金沢の伝統工芸である有名な九谷焼大樋焼き、また加賀友禅加賀水引き加賀蒔絵加賀象嵌などは、すべて歴代の殿様によって形作られました。しかし、これらは、一朝一夕に作られたのではなく、歴史をみますと大変な思いをしてようやくできあがったのでした。

加賀前田氏は天正11年(1583)に前田利家(としいえ)が能登の七尾から金沢に入城して以来、十四代の慶寧(よしやす)までの約300年にわたり北陸一円を支配しました。利家は、豊臣政権下では五大老の一人として活躍し、豊臣秀吉亡き後は、その息子秀頼(ひでより)の後見人になるほどの信望を集めましたが、慶長4年(1599)大坂城で62年の生涯を閉じました。

利家の死後、前田家は家の安泰に苦心します。徳川家康の機嫌をとるために四苦八苦するのです。家康に対する低姿勢の保守外交に徹し、加賀百万石の存続を図ります。

2代目利長(としなが)は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家側の東軍に属し、母芳春院(ほうしゅんいん)を人質として江戸へ送ります。そして、養嗣子の弟利常(としつね)に秀忠の娘珠姫(たまひめ)を迎え、徳川家との婚姻政策が開始されることになりました。

3代目利常は、嗣子光高の嫁に、徳川家光の養女大姫(水戸徳川頼房の娘)を迎えます。

ようやく、徳川家との結びつきが深まるにつれて京都通いが増し、自然と京都の美術工芸に興味を持つようになります。そして、その後京都より多くの名工達を招き、藩をあげて、美術工芸奨励を推し進めました。これは、ひとえに幕府の警戒心を解く為の策略でありました。この文化政策は、5代目綱紀(つなのり)で見事に花を咲かせたのです。

前田家が、京都の美術工芸に興味を持ち、財力を費やしたということは、彼らにとっては、ある意味で屈辱的なことだったかもしれませんが、その結果、“食”文化が発展する土台を築いたということを考えると、日本料理における彼らの功績は、はかりしれないといえるでしょう。







 

加賀百万石
と魯山人