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 『うたかたの日々』  ボリス・ヴィアン



うなぎのパテ


「アントレはなんだね」

「今回だけは、なまじ独創などは働かせませんでした。グッフェを失敬するだけにしときました」

「いや、グッフェならりっぱなもんだ。で、彼の作品のどの部分を復元するつもりなんだね」

「彼の『料理の本』の六百三十八ページに載っているところですよ。旦那様に読んでお聞かせしましょう」

コランは壁の色に合わせて、絹の油紙を貼り、穴のあいたゴムが詰まった床几の上に腰を下した。ニコラは以下の文章を読み始めた。

「アントレ用に、熱いパイの皮を焼きたまえ。大きな鰻を三センチメートルの切り身にぶつ切りにしたまえ。その鰻の切ったものを白ブドウ酒、胡椒、玉ネギのみじん切りに、セロリを枝ごと、それにタイムに月桂樹の葉と、それにニンニクを少々加えて、鍋の中に入れたまえ」

「思った通りには細くならなかったんですよ。なにしろ砥石が痛んじゃってるもんで」

「かえさせよう」とコラン。 

ニコラは更に続けて、

「火にかけたまえ。鰻を鍋から出してフライパンの中に入れたまえ。煮た汁を篩にかけたまえ。スペインソースを加えて、ソースをひと匙ぐらいにまで煮つめたまえ。篩にかけて、ソースを鰻の上にたっぷりかけたまえ。そうして二分間ほど煮たまえ。鰻をパイの中に飾りつけたまえ。パイの焼けたものの縁にキノコを糸状に並べたまえ。まん中に鯉の白子のサラダで飾りをつけたまえ。それからとっといたソースをかけたまえ」

「なるほど。シックが好きそうだなあ」

(伊東守男訳/早川書房)



●作者紹介

ボリス・ヴィアンBoris Vian(1920〜1959)。フランスの作家。工業技師のかたわら、小説や詩、戯曲を書く。また、ジャズ・トランペッターとしても、第二次世界大戦直後のパリ、サン=ジェルマン=デ=プレ界隈で活躍した。

生前は作家としての才能を認められず、奔放な発想とやさしさと残酷さに満ちた作品は、没後に高い評価を得る。主な作品は、『うたかたの日々』(1947)、『墓に唾をかけろ』(1946)、『北京の秋』(1947)、『心臓抜き』(1953)など。

BORIS VIAN

●作品紹介

『うたかたの日々』

1947年発表の小説。結婚して早々に肺が睡蓮の花にとりつかれたクロエと、彼女のために花を飾る金を稼ぎにいろいろなアルバイトに精を出す夫のコランが主な登場人物。ある日コランは、不幸がまもなく訪れる家族にそれを知らせる仕事をしていて、自分の名前をリストに見つける。つまり、翌日クロエが死ぬことになっていたのだ。クロエの葬式の後、抜け殻のようなコランの様子を見るに忍びないペットのハツカネズミは、猫の口に頭を突っ込んで自殺を図り、この物語は幕を閉じる。「現代の恋愛小説のなかで最も悲痛である」とも評されている。



ボリス・ヴィアン、その尽きない発想

「一人の男がある女性を愛し、その女性は病気になり、死んでしまう」。作者にいわせればただそれだけの筋ではあるが、それにしてもボリス・ヴィアンの発想にはただただ恐れ入る。ヒロインの肺に睡蓮をとりつかせて死に至らせる、スイートホームの天井と床の間をどんどんせばめてゆく、水道管にうなぎやますを棲息させるなどなど。そしてあのジャン=ポール・サルトルを「ジャン=ソル・パルトル」なんて名前で登場させて皮肉っているあたりなんて傑作だ!

この小説に登場するヴィアンの発明品は、自身が工業技師であることも手伝ってか巧妙複雑だ。例えば、その名も「ピアノカクテル」。ピアノの鍵盤1個ずつにいろいろな種類のアルコールを対応させて、曲を弾き終えるとグラスにカクテルができあがっているというもの。ペダルを踏むと泡立てた卵や氷、トリルでソーダ水、生クリームは低いソの音を弾くと出てくるなど仕掛けは盛りだくさん。この装置が全体のハーモニーも考慮してカクテルを仕上げるあたりは、音楽家たるゆえんか。

今回取り上げたのは小説の冒頭近く、コランが友人シックを夕食に招いた日の、料理人ニコラとの会話。ニコラはこの日初めてシックと顔を合わせるので、腕をふるおうと意気込んでおり、このうなぎのパテのあと七面鳥のローストを出す。うなぎは、コランとクロエのスイートホームの洗面所の蛇口から頭を出したものだ。


映画「うたかたの日々」に登場したピアノカクテルの装置


クロエの病気がひどくなるにつれて周りの人間にも元気がなくなり、ニコラにはもうグーフェ(グッフェ)流の料理を作る気力がなくなってしまうのが何とも残念だが、ヴィアンがグーフェの料理の本をときには開いて自身の奇抜な構想を温めるきっかけにしていたのだろうかと想像すると、19世紀の料理書から小説の舞台となっている20世紀半ばへの時間の流れに現実とフィクションが交錯して、不思議な気分になってくる。



酒井 知子






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