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魯山人料理の極意


杉浦
「平野さんと北大路魯山人とのそもそもの出会いについてお伺いしたのですが」

平野氏
「昭和28年の春ですね。早稲田大学3年に在学中で、市場調査、今で言うところのマーケティングのアルバイトをしていたんです。毛糸の市場調査を銀座でやっていまして、そのとき火土火土美房に『編集者求む』の広告を見たんです。北鎌倉の魯山人の窯場へ面接に行き、それから亡くなるまでお側にいました。毎晩のようにビールを飲みながら『人間を見ること』『美』『料理』について学ばさせていただきました」

杉浦
「魯山人が開いた星岡茶寮についてお伺いししたいと思います。まず、場所に、ついてお聞かせください」

平野氏
「赤坂山王台日枝神社のすぐ隣です。現在キャピタル東急ホテルのあるところですね。もともと徳川宗家の当主・家達(いえさと)公爵を会長とする公家、大名華族、その他名家顕族の社交の場が星岡茶寮だったのです」

杉浦
「つくりはどのようなものだったのでしょう」

平野氏
「茶室が3つ。階上階下に広間が4つ。階下の廊下は鶯張りで、歩くと鶯の泣き声のような音がしたそうです。鶯張りは京都知恩院のものが知られていますね。建物は明治17年に建てられた純和風の数寄屋造り。その用材は江戸城の改築用材の一部を明治天皇より下賜されたものでした。すべて桧の柾目の通ったものばかりで、現在でしたら一本だけでも床柱として珍重されるほどのものですよ」


東京星岡茶寮
少女給仕人

杉浦
「当初から名士の社交の場としてつくられていたわけですね」

平野氏
「そうです。そして大正12年の関東大地震。東京中の建物が灰燼に帰するなか、星岡茶寮はなんの損傷もなく残った。これを東京市長の助役で復興に努力していた長尾半平が目をつけ、魯山人に借り受けるようにとりもった。そして大正14年3月20日、高級料亭星岡茶寮として開店となったわけです」

杉浦
「お客様はどのような方だったのでしょう」

平野氏
「星岡茶寮は会員制でした。当時の政界、財界、文化界の人々千名あまりを会員としました。魯山人の監督指揮による日本料理を味わいながら、大臣人事が決められ、次期社長が協議され、朝鮮や台湾の総督なども決められたと聞いています」

杉浦
「料亭としての星岡茶寮について聞かせてください。他の料亭、どう違っていたのでしょう」

平野氏
「それまでの料亭というところは斡旋状がないと入れてもらえなかった。しかし星岡茶寮は料理人も仲居も、すべてが公募。まずここが違っています。そして料理人に白衣を着せたのも星岡茶寮。それだけじゃなく、仲居の着るものにも、気を配った。さらに、料理人を板場で食事させなかった。料理人として見識をつくらせるために、順次部屋で同じように食べさせる。客になったつもりで、料理を体験させる。これもそれまでの料亭と違うところでしょう」

杉浦
「料理人だけでなく仲居さんたちにも目を配っていたと聞いていますが」

平野氏
「仲居さんに書や絵の掛け軸、器についてのレクチャーもしていました。お客様に質問されたときに即答できるようにとね。知ったかぶりはいけないから。星岡茶寮は料理、サーヴィス、部屋、器、どこを切り取っても魯山人の気が入っていましたよ。それだけ、もてなすことに気をつかっていたということです」

杉浦
「調理場はどのようだったのですか」


東京星岡茶寮
広間上席縁側(奥に茶席臺目を望む)



平野氏
「星岡茶寮では魯山人が料理長、板場のいちばん上が料理主任と呼ばれていました。よく魯山人が言ったのは『天候、風の具合で献立を変えろ。温度感覚で考えろ』ということです。また食材については生産地から星岡茶寮までの距離を問題にしていましたね。たいがいの料亭や料理店は魚などは持ってこさせるんだけれど、魯山人は自ら魚市場へ出向いて自分の目で見なければ買わなかった。『小さい魚は自己消化を起こして早くダメになることがある』と言っていたね。食材を科学的な目で見ていたんだ」

杉浦
「食材へのこだわりは、尋常ではなかったようですね」

平野氏
「今は宅配便とか産地直送はあたりまえですが、当時は自動車がめずらしい時代です。その当時に飛行機で明石の鯛を取り寄せていたのですからね。鮎は丹波・和知川から生きたままトラックや貨物列車に生簀を積み込んで夜通し運ばせる。しかも鮎が死なないように絶えず新鮮な水を注ぎながら」

杉浦
「そこまでしていた魯山人の料理と魯山人以前の料理は具体的にどういう差があるのでしょうか?」

平野氏
「それまでの会席料理というものは一度にすべて出すものだったんです。これは料亭という所が現在とは違ったということにもふれなければなりません。料亭とはおいしい料理を食べるところというよりかは、お酒を飲みに行く所だったんですね。料理はどちらかというと脇役だった。でも料理人はやはり料理を食べてもらいたい。だから料理に目がいくように盛り付けに工夫をこらしたり、とにかく見た目を大事にしがちだった。料理の出し方もだから本膳も脇膳も一度にドッと出して目を引こうとしていたんでしょう」

杉浦
「魯山人はそういった料理をまったく変えてしまったと」

平野氏
「そういった一度に出すやり方を魯山人は変えた。時系列で出すようにしました。しかし、これは魯山人のまったくのオリジナルというわけではありません。利休の懐石をとりいれてのことなのです。また、大きい魚は切り身にしませんでした。とにかく自然のままのカタチの美しさをお見せする。それを仲居さんが取り分ける。また椀ものなどは煮えばなをサーヴィスしてました。部屋の隣に椀を温める用意をしてね。温かいものは温かいうちに、という心です。果
物などもそのまま大きな鉢にいろいろな種類を持って出してました。それぞれの美しさをたのしんでもらいたい。好き嫌いもあるだろうから、自由に食べてもらいたい。もちろん仲居さんが皮をむいて切り分けてお出ししますよ」

杉浦
「お客様にきびしかったという一面も聞いていますが」

平野氏
「こんな風に真剣に料理を出しているから、いつまでも会話に夢中で箸を付けないお客様には怒ってもいましたね。『真剣に食え』『客ぶりが良くないと、いい食事会はできない』と言っていました」

杉浦
「魯山人は料理で真剣勝負を挑んでいた?」

平野氏
「星岡茶寮を食事の修業道場と考えていたふしがありますね」

杉浦
「魯山人が料理の手本というか、参考にしたものは何だったのでしょうか」

平野氏
「魯山人は『料理は道理を科るもの』『料理は複雑であって、一筋縄ではいかない』と言い『衣服に四季別々さまざまあるように、料理にも四季さまざまの働きがある。安閑としていては、料理はできない』と力説していました。また、よく『姿・カタチは自然物にかなわない』とも言ってました。料理にも余計なものを入れさせなかった。お花を添えるのもダメとね。こうした魯山人哲学とも言えるようなものはやはり独力で這い上がるように生き抜いてきた人生そのものから生まれたのではないでしょうか」

杉浦
「料理の味、そのものについてはどのようなことをおっしゃっていたのでしょうか」

平野氏
「味については『天然が最高の持ち味を持っているんだ。生気みなぎるものを手早く料理してお出ししろ』とね。『味付けとは補助味である』だから『材料を見る目を養え』とも。また『裏に畑をつくって、そこの野菜を出すのがいい』とも言ってたね。だから食材を無駄にすることをとても嫌った。大根の皮を捨てると、その料理人は怒られていた。『大根は皮のところに旨さがある。ちょっと工夫すれば前菜になる』。魚のアラや野菜の皮など料理しだいで、いくらでもおいしくなるんだと説いていた。『ひとつの素材を最後の最後まで使いきれ』とね。ここにも魯山人哲学がありますね」


平野雅章氏

(まとめとして)
 北大路魯山人が、日本料理の世界に与えた影響は、多大なものがあることがよくわかりました。間違い無く、日本料理を革新した偉大な人物です。
 日本料理で一番大切なことは、まず、何よりも食材の吟味であるということ、必要以上に手間をかけるのではなく、その食材のおいしさを最大限に引き出すことが、料理人としての本分であることを学びました。
 何が大切で何が大切でないか、そのあたりの見極めが、如何に大切であるかを今回の取材を通して考えさせられました。





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加賀百万石と魯山人