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代表 辻芳樹 WEBマガジン

『吉兆』 嵐山本店 総料理長 徳岡邦夫 Vol.2

Chef’s interview

2010.10.08

■ミュージシャン志望から料理人へ:「俺が『吉兆』を継げばみんながハッピーになる」■

辻:では少し話をすすめさせていただきますけれど、『吉兆』さんほど有名な料亭って日本にはないと思います。これほど有名な料亭の家系に生まれて、周りは料理人ばかり、しかも傑出した才能の料理人ばかりという環境の中で育つと普通は自然に「この店を継がなければいけない」と考えると思うんですが、徳岡さんの場合はいかがでした?

徳岡:20歳になったときに正式に『吉兆』の社員になったのですが、、それまで一度も料理人になりたいと思ったことはなかったですね。実は20歳のときでさえプロのミュージシャンを目指していました。

辻:プロのミュージシャンですか!楽器は何を?

徳岡:ドラムです。だから「ドラ」息子って言われましたよ(笑)

辻:(笑)ちなみに今は調理場でなんと呼ばれているのですか?

徳岡:えっ~と、「馬鹿」と(笑)

辻:えっ?

徳岡:実は父のことをみんなは「主人」と呼ぶんですね。で、僕のことを若い主人ということで「若主人」と呼んでいるのですけれど、略して「若(わか)」ってみんな呼ぶんです。時々、それに混じって「馬鹿(ばか)」って呼ぶ者がいるんですね(笑)

辻:その話は後でゆっくりしてくださいよ(笑)。ところでプロのミュージシャンを志望されたのはお父様は意図的に料理人の道を継がせようとされなかったのか、あるいはあえて徳岡さん自身がその環境から出ようとされたのですか? 料理人になるつもりはさらさらなかった、と仰るのはプレッシャーからですか?それとも・・・

徳岡:いや、プレッシャーからではないと思います。別に料理人が嫌だというのではなくて他にやりたいことがあったというだけです。

辻:それは何歳ぐらいの頃からですか?

徳岡:高校を卒業する頃からですね。僕は一度私立高校を退学して調理場に入って、2年間ほど手伝いのようなことをしていたのですが、もう一度高校に行きたくなって近所の公立高校へ行って、そこで知り合った仲間たちとバンドを組んで、3年間バンドをやったんです。

辻:僕はてっきりアマチュア気分でバンドをされていたと思っていたのですが、プロ志望だったのですね。

徳岡:そうです。

辻:じゃあ若い頃の「自分探し」でもなかったってことですよね。

徳岡:「自分探し」なんてやっている余裕はなかったですね。もうやりたいことをやるというだけです。

辻:ご両親は「好きなようにしなさい」という感じですか?

徳岡:いや、反対しました。

辻:ご両親に反対されて、どうされました?

徳岡:ミュージシャンになると決意して、音楽を基礎からやり直すための専門学校のこととか、生活資金とか全部貯めて、今後のアルバイト先、住むところなども確認して両親にこういう道にすすみますという話をしたわけです。
 もちろん反対されることは予想していましたので、家を出るつもりでいたのですが、両親があまりに紋切り型に「音楽をやること=禄でもない」という図式で反対したので、僕も「それは違うよ」と。「日々努力して成長して、向上しようとすることの何がいけないのか」と反論して、双方感情的になるだけだったんです。
 そこで思いついたのは、祖父の湯木貞一が尊敬していた臨済宗の高僧、この方はすべてに関して非常にフラットに見ることのできる方だったので、この人の意見を聞いてみようと思ったんです。
 この方がわかってくれたら、湯木貞一も理解してくれるだろうし、うちの両親も理解してくれるだろうと考えたんです。で、この老師に話に行ってくるというと両親も大賛成だったんですね。
 僕とすれば「よし、これで俺の思いも伝わるにちがいない」と高をくくっていたわけです。ところがこの老師のところにご挨拶に行ってその話をしてみたら、老師はなんの意見もくださらずにただ「しばらくここにいなさい」とだけ言われ、そのまま風呂場に連れていかれて剃髪され、雲水(禅宗の修行僧)としてそのお寺にとどまることになったんです。

辻:えっ~、それおいくつのときですか?

徳岡:20歳前ですね。

辻:いきなり雲水としての生活が始まったわけですね。何年間ぐらい?

徳岡:2ヶ月ぐらいですね。毎日、風呂の当番をしていました。風呂と言ってもガスをひねればいいというものではありません。薪風呂ですから、まずは燃料になる薪を作ることからです。薪を作り、沸かし、最後は風呂をきれいに掃除するわけです。
 また、修行ですから毎日早朝暗いうちから座禅を組みます。するととにかく寒いのと脚が痛いのとでトランス状態といいますか、頭の中がボッーとしてくるんですね。もちろん「考案」が与えられていてそれを考えなければだめなのですが、基本的にはボッーとしているんです。そのうち山の背から朝日が燦然と上がるような錯覚に陥るわけですよ。ま、そういうの「悟り」だとかいう人もいるかも知れませんが、あれは明らかに錯覚ですね(笑)。
 そんな状態の中で、考えたわけです。「俺が自分のやりたいことを押し通そうとするためにたくさんの人が迷惑し、悲しみ、困っている。これでは至るところ<負>ばかりで、その渦中にいる自分自身もこうやって早朝から座禅を組み、つらい思いをしている。いったい何してるんだろう?」って。「俺は自分も含めて皆が悪い状態になることをを作っている」って思ったんです。で、この状態から逃れたい、皆が良くなるようにしたい、そのためにはどうしたらいいんだろうって考えたら、「俺が『吉兆』をついだら皆がハッピーになるんだ」という結論に達したわけです。

辻:その結論は他人(ひと)のためではなく、ご自分のためだったんでしょう?

徳岡:もちろん自分が幸せになるためでもあります。そこでただ、同じ料理人になるなら世界を目指してやりたいと思ったわけです。それでどうすれば世界を目指せるのかと考えたとき、僕の中で世界に一番近い料理人は湯木貞一でした。ですから『吉兆』に入社するのも嵐山ではなくて、湯木貞一の傍で仕事ができるという条件で入社したんです。

辻:それが大阪の高麗橋『吉兆』ですね?何年間いらっしゃったのですか?

徳岡:3年間です。

辻:築地『吉兆』さんのほうには?

徳岡:4年間ですね。

辻:20歳というのは料理の修行を始める年齢としては特に遅くはないですか?

徳岡:う~ん、今、22歳と21歳のうちの息子たちを見ていると、味覚という部分での教育に関してもう少し若い頃にしてやっていたほうがよかったかなって思うところもあります。
 例えばTV番組で歌舞伎役者の番組などで小さな時からそういう空間に慣れさせる訓練をしているじゃないですか。この手の番組を息子と一緒に観ていて、僕、息子に謝りましたよ。「ごめんな、もっと早くこういうことすべきだった」って。

辻:伝統芸能の場合、代々継承することができますけれど料理人の場合、それが難しくないですか?

徳岡:確かに難しいこともありますが、やはり環境に早く慣れているとさまざまなことを身につけることも早かった可能性もあると思うんです。でも、これはあくまで可能性の問題です。だから仮に30歳から料理を始めるのが遅いかといったら決してそんなことはないでしょう。一番大事なことは集中できるかどいうかだし、味をきちんと整理して感じることができるか、もしくは朝から晩までそういうことを意識していることができるかどうかだと思います。

辻:そういうことを意識していられるかどうかは大きいですね。特に料理を食べるときですね。

徳岡:そうです。

辻:少し修行時代のお話を聞かせてください。どのような修行時代でした?例えば親族ということで風当たりが強かったとか。

徳岡:創業者の孫でしたから大事にされましたね。大事にされるっていうのは要するに囲まれて守られるってことです。ですから自分で考えて何かするなんてことはまったくさせてもらえませんでした。
 修行というのは厳しいものでないと修行にならないですよね。だから守られている環境の中ではそれは修行とは言えないです。だから修行という意味でいうと僕は最悪の修行をしたことになります。なんでもそろっている状態で「はい!」「はい!」ってやってもらえるわけですから何も僕自身に身にならないんですよ。

辻:僕は日本料理の調理場で働いたことはないんですけれど、一般的に調理場というのはそれぞれのポジションがあって、あるポジションを何年か担当して、次に別のポジションに移るといったローテーション・システムがあるじゃないですか。でも日本料理の厨房の場合はあまりそれがなく、ひとつのポジションを徹底的に担当するというケースが多いと思います。そんな中で徳岡さんはどのようにして自分の仕事はこれだということを分析し、学んでいったのですか?

徳岡:僕の場合は今仰ったようなローテーションとは無関係にやりたいことができました。あれをやってみたいと言えばすぐにそのポジションが与えられる。「これをやりたい」といえば出来るわけです。

辻:ということは自分の意志でスキルをあげていこうとすればどんどんできるということですね?あるいは何もしないでおくこともできるってことですね?

徳岡:そうです。でも、そういう環境の中にいると何か馬鹿にされている感覚がありました。ですから例えば鱧の骨切りをやらせれば誰がみたって僕が一番巧い、というレベルになれば、認められるだろうと考えたわけです。
 だから芭欄をきれいに切る技術、誰よりも綺麗に切る、そういったことに執着しましたね。どんなポジションでも僕が希望すればやらせてもらえるという状況、でも、それは決して僕の技術が認められているからではないということが非常に嫌でした。そこで味付けとかそういうことではなくて、誰の目にもはっきりわかるスキルの習得に集中していました。

辻:いずれにしろ自分との戦いだったんですね。

徳岡:まぁ、そういうことでしょうか。ひたすら認めてもらいたいという思いでしたね。