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【とっておきのヨーロッパだより】イチゴフレーズショートストーリー

12<海外>とっておきのヨーロッパだより

2009.10.21

<【とっておきのヨーロッパだより】ってどんなコラム?>

私たちには馴染みの深いフルーツ、イチゴ。甘酸っぱくも繊細な甘み、そしてみずみずしい
その表面には柔らかく色づく赤。そう、イチゴは誰もが簡単に思い浮かべることのできるフルーツ
でありそのおいしさは多くの人に認められるところでしょう。

まるで宝石のようなイチゴたち(ガリゲット種、3.8ユーロ/250g

イチゴは、熟すにつれて次第に赤く色づいていきます。ですが、熟してもほとんど赤く色づかず
無垢なままの白い色をしたイチゴがあったということはあまり知られていません。
本当はまだ熟れていないのでは? 違います。そうではないのです。このイチゴのことを知ったのは
プルガステルという町にある、イチゴをテーマにした小さな博物館と、そこで購入した1冊の
可愛らしい本『オ・ノム・ド・ラ・フレーズAu nom de la Fraise(イチゴの名において、の意)』の
内容からでした(著者マリー=ジョゼフ・カンタン=ケルヴェラMarie-Joseph Quintin-Kervella)。


“オ・ノム・ド・ラ・フレーズ”の表紙

フランスの北西部、ブルターニュ地方の最西部のすぐ南に位置するこのプルガステルの町は
内海に面した半島であり、東西に約16キロ、南北には最大で7キロの幅を持ち、横長の形を
しています(右手で水をすくうときの形をとり、そのままの形で裏返す。指先が西。これが
プルガステル岬のおおよその形です)。プルガステルはフランスを代表するイチゴの特産地の一つ
でこういった博物館があってもなんら不思議ではありません。
そして、この博物館には、赤い色をしたイチゴはもちろんのこと、今まで聞いたことのない
『白い』イチゴについての展示があったのです。


ラ・ブランシュ・デュ・シリの絵

さて、この白いイチゴとはいったい何なのか?この疑問に答えることが、すなわち現在の
プルガステル産のイチゴがどのようにして特産地としての地位を手に入れたのかを
知るカギとなり、この白いイチゴのルーツを知ることになるのです。


アメデ=フランソワ・フレジエの肖像画

この答えには、少し歴史をさかのぼりますが、アメデ・フランソワ・フレジエ
Amédée-François FREZIERという人物が大きく関わっています。この人物のある発見が
のちのフランスだけではなく、世界のイチゴの出来を大きく左右することになるのです。
彼は1712年当時、海洋地図を製作する海洋士官でありましたが
スペインの港や南アメリカ、西ヨーロッパ近辺の要所を偵察する使命を持っていました。
その任務の傍ら彼はチリに寄港し、そこで一つの発見をします。それは、その地域で
栽培されていた作物にありました。今まで見たことのないイチゴを見つけます。
そのイチゴは、果実そのものが熟しているのにもかかわらず白くそして何より大粒だったのです。
これが白いイチゴの正体『ラ・ブランシュ・デュ・シリLa Blanche du Chili(直訳するとチリの白。和名チリイチゴ)』なのです。

A・F・フレジエにとって、この発見は偶然ですが、彼の家系を調べるにつれ運命を感じて
しまいます。なんと彼の先祖は元々フレジエという姓ではなく、10世紀に王様においしい
イチゴを献上したところフレーズFraise(イチゴ)の姓を拝領し、騎士の地位を得ていたのです。
そして彼の一族の紋章にはイチゴの花と果実が描かれています。
それはA・F・フレジエに流れる先祖の血脈こそが、彼を白イチゴと引き合わせた
運命、ということを物語っているのでしょうか。


フレジエ家の紋章


フレジエ家の紋章

A・F・フレジエはそのイチゴ≪ラ・ブランシュ・デュ・シリ≫をフランスに持ち帰ることにします。
彼がパリに戻ったのは1715年のことでしたが、フランスの王ルイ14世に呼ばれた彼は早速
旅の報告と共にこのイチゴを王に紹介したとされています。こうして、フランスにはすでにあった
ラ・フレーズ・デ・ボアLa fraise de bois(エゾヘビイチゴ)と、ル・フレジエ・ドゥ・ヴィルジニ
Le fraisier de Virginie(バージニアイチゴ。17世紀初頭、北米(後のカナダ)よりフランスに
持ち込まれた)というイチゴの2種に≪ラ・ブランシュ・デュ・シリ≫が加わったのでした。
その後、プルガステルの北にある町、ブレストの執政官となったA・F・フレジエは、当時
フランス屈指の美しい場所であったブレストの果樹園に白イチゴ≪ラ・ブランシュ・デュ・シリ≫
を移しています。ここでは現在のような栽培方法はまだ確立されていませんでしたが
他種との自然交配やバージニアイチゴとの交雑などを経て新しい品種を生み出すことに
なるのです。こうして彼A・F・フレジエは、フランスのイチゴの未来に
大きなきっかけを残したのでした。

――― そして時は流れて、1700年代も終わりの頃、これら果樹園で栽培されていた
多くのイチゴはブレストからプロガステル半島内に持ち込まれます。プルガステルは
当時からイチゴを栽培する気候条件としては申し分なかったので、農家はこれまでの
作物よりも利益を生むことの出来るイチゴを栽培するようになりました。
そして、交配の技術や栽培方法の確立により品種の改良がなされていきます。
これらの技術の革新は、プルガステルを有数のイチゴ特産地に押し上げる
大きな要因の一つとなります。
19世紀初頭には、英国に輸出できるほど栽培されるようになり、貨物船3隻分の
積荷が週に3回往復するほどになりました。その船旅には柔らかいイチゴが長時間の
輸送に耐えられるような保存方法や取り扱いの工夫が必要でしたがその選りすぐられた
イチゴは英国の消費者にも評判がよかったようです。
こうして、白きイチゴ≪ラ・ブランシュ・デュ・シリ≫は、次世代の多くのイチゴの生みの親
になりプルガステルをフランス有数のイチゴ産地に押し上げる導き手となりました。
この≪ラ・ブランシュ・デュ・シリ≫は、イチゴの中に今でも生き続けていると
言えるのではないでしょうか。


ガリゲット種gariguette


マラ・デ・ボワ種mara des bois


シラフィーヌ種cirafine

そして、現代―――。
ブルターニュ地方の市場には、とてもみずみずしく、まるで紅玉石のような綺麗でかわいい
イチゴが並んでいます。それらを注意深く観察すると、ほとんどと言っていいほど
プルガステル産を示すマークがついています。

プルガステル産のイチゴにはこのマーク

イチゴの特産地として有名なプルガステル半島ですが、現在イチゴは
主に半島の南部で栽培されています。ここは、栽培に最も適したと言われる粘土質の
土壌を有し、外海から守られたプルガステル半島の位置も影響してか、上空に吹く穏やかな
風にも特長があり、土壌をやさしく包み込むようなイチゴを作るのに適した気候を形成して
います。この自然からのすばらしい恵みがプルガステル産のイチゴを極上のものへと
引き上げているのです。

『La fraise de Plougastel est arrivée! Goûtez les bells Plougastel!』
(プルガステル産のイチゴだ!ここのイチゴはとても美味しい!)
このフレーズは先の本『オ・ノム・ド・ラ・フレーズ』の冒頭に書かれていました。
この本を購入したイチゴ博物館の展示内容はというと、プルガステルで栽培されている
イチゴの歴史や栽培方法といったことももちろんたくさん紹介されていました。
しかし、学問上のイチゴの展示というよりは、プルガステル産のイチゴをもっとたくさんの
人に知ってもらうため、また、もっと多くの人に食べてもらいたいという生産者からの
メッセージを含めた展示内容でした。博物館としては小さな規模で、実際、立ち止まらずに
順路を歩くと5分位で出口についてしまうような大きさでしたが、内容自体がプルガステルに
限定されていて、この地域で栽培されているイチゴについてかなり詳しく展示してある
印象がありました。この旅先で立ち寄った小さな博物館がこんなにも素晴らしいもので
あったことは、すごく幸運なことだと思います。

そう言えば、日本でも少し前に、白いイチゴが業界で話題になったとか。
それはチリの白イチゴとは別物で日本にある様々なイチゴの品種を掛け合わせて
作られたそうです。そのイチゴの値段は、高いもので1粒500円もの値段がついたとも。
珍しいものがもてはやされる日本ではあり得る話なのでしょう。

今日のフランスではたくさんのイチゴを見ることができます。
そして、それらのイチゴたちのその柔らかく繊細な果肉の内側には
きっと今でも『白い』輝きを宿しているのです。

<コラムの担当者>
洋菓子担当
森 貴行

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