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食のコラム&レシピ

【とっておきのヨーロッパだより】ポルトガルお菓子紀行 ~あのお菓子のルーツを求めて~

12<海外>とっておきのヨーロッパだより

2012.08.01

<【とっておきのヨーロッパだより】ってどんなコラム?>

ユーラシア大陸の最果て、スペインに寄り添うように位置するポルトガル。

日本から約11000kmも離れたこの地から1543年にポルトガル人が種子島に漂着して以来、日本と交流し多大な影響を与えました。以後、日本にとっていわば"遥かなる隣人"であり、今日の私たちの生活に根付いているポルトガル起源の文化も多くあります。

その中でも一番と言ってもいいほどに有名なお菓子の一つが「カステラ」という事はよく知られていますが、カステラの他にも、ポルトガルから伝来し、日本に根付いたお菓子があると聞き、フランスのリヨンLyonから飛行機で約二時間半、首都のリスボンLisboaにそのルーツを探す旅に出ることにしました。

テージョ川の河口に広がるポルトガルの首都リスボンは、大きく分けて7つのエリアに分かれています。1755年の大地震により、街は大きな被害を受け一時壊滅状態となったものの見事に復活を遂げ、地震の被害をまぬがれた旧市街や、再開発の都市計画に基づいて再建されたエリアなど、様々な顔を持っています。


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オレンジの屋根が美しいポルトガルの街並み

それぞれのエリアを結んでいるのがエレクトリコEléctrico(トラム)やエレバドゥールElevador(ケーブルカー)。この地を舞台にした映画などには必ず登場するこれらの白と黄色の可愛らしい車両は、坂の多いこの街に住む人々にとって欠かせない移動手段です。私もトラムに乗って、様々な「パステラリーアPastelaria」を回りました。


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左:狭い路地も駆け抜けるケーブルカー
右:パステラリーアのテラスはいつも人で賑わう

パステラリーアとは、カフェが併設された菓子屋のことでポルトガルの人々は日に一度はこのパステラリーアを訪れ、ビッカBicaと呼ばれるエスプレッソや、ガロトGarotoというカフェオレと共に、老若男女問わず、お菓子を食べおしゃべりを楽しむのだそうです。

ポルトガルから日本へ伝来したお菓子は、金平糖(注1)や丸ぼうろ(注2)など数をあげていけばきりがないほど多くありますが、今回はその中でも2つのお菓子に注目したいと思います。

まず初めにご紹介すべきお菓子は、何と言っても「カステラ」でしょう。

しかし残念ながら、ポルトガルで「カステラはありますか?」と尋ねても、店員は首を傾げるばかり。なぜなら、そもそも「カステラ」というお菓子が存在しないのです。

その起源となった元のお菓子は「パォン・デ・ローPão de ló」というもの。1550年、平戸に来航した貿易船が領主に献上した品に含まれていたものが最初だという説が有力ですが、何故名前が間違って伝わってしまったのかは、はっきりしていません。諸説の中には、「ボーロ・ディ・カステロBolo di castelo=お城のようなお菓子」という表現に由来する、というものや、メレンゲを作るときに「高くそびえたつお城のようにたっぷりと泡立ちますように」というおまじないを言いながら卵白を泡立てていたことに由来する、といったものがありましたが、残念ながらどれがもっとも確証ある説かはわかりませんでした。

さて、「パォン・デ・ロー」としてポルトガルより伝来し「カステラ」と名を変えて日本で知られるようになったこのお菓子の材料は、初めは卵+砂糖+小麦粉と、いたってシンプルなものでした。

が、このお菓子は当時の日本人にとっては衝撃的なものでした。当時日本には広く仏教の教えが浸透しており、鶏卵を食することは禁忌に近いことだったためです(注3)。しかし、卵を食べることも含めて日本は貿易船が持ち込んだ異文化を徐々に受け入れてゆき、卵を使ったお菓子であるカステラも広まっていったようです。そしてカステラ自身も独自の進化を遂げ、明治以降米蜜が砂糖の一部に代用して使われるようになり、今の形になっていきました。

では本国ポルトガルでは、カステラの原形となったパォン・デ・ローとはどういったものなのか?現地へ渡航する前、予習の為に情報収集をしていたところ、「リスボンに本家パォン・デ・ローとカステラを並べて売っている、ポルトガル人と日本人のご夫妻が経営するお菓子屋がある」という、願ってもない情報が飛び込んできました。

お店の名前は「カステラ・ド・パウロCastella do Paulo」。店主のパウロ・ドゥアルテ氏は、日本の老舗和菓子店で日本のカステラを学び、本国ポルトガルに"里帰り"を果たした立役者であり、奥様の智子・ドゥアルテ氏は、ポルトガル菓子・料理研究家としてそれらの日本への普及活動や、ポルトガル伝統菓子の保存に努めていらっしゃる方です。

その智子氏に、無理を承知でポルトガル菓子の話を伺えないものかと連絡をした所、なんと、パォン・デ・ローの講習会をしてくださるとのこと。数年ぶりに学生の気持ちにかえって、わくわくした気持ちと緊張を抱えながら、リスボンから少し離れた町にあるお店の仕込み用のキッチンに足を運びました。

まず初めは実際にパォン・デ・ローを作ることから。以下が今回のレシピです。

≪パォン・デ・ロー Pão-de-ló≫ 直径11㎝の型2個分

全卵       1個

卵黄       3個

グラニュー糖   50g

薄力粉      25g

シナモンパウダー 少々

① 素焼きの陶器の型に紙を敷く。(今回は普通のコピー用紙を使用)


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今回は専用の型を使用

② ボウルに全卵、卵黄を入れ、卵のコシを切ったら砂糖を全量加え、泡だて器から生地がもったりと落ちる位までしっかりと泡立てていく。


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卵と砂糖が泡立ちあがった状態

③ ふるった薄力粉とシナモンパウダーを加え、泡だて器で軽く合わせる。最後にゴムべらで粉気がなくなるまで合わせきる。

④ 用意した型に流し込み、軽くテーブルに打ち付けて空気を抜く。


f.jpgのサムネール画像

出来上がりの生地の状態

⑤ 180℃のオーブンで上火を強めにして焼く。表面に焼き色が入ったところで、中心を触ってみて弾力を感じないくらい(プルプルとして生焼けの状態)で取り出し、型のまま冷ます。


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焼きあがり。中心部分が蜜のようになっている

焼けるのを待っている間に、ポルトガルのパォン・デ・ローについてお話を伺いました。

そもそもポルトガルでは各地で守護聖人へのお供え物として焼かれていたもので、現在でも3月の復活祭の時によく食べられているそうです。北部での消費量が特に多く(注4)、リスボン以北の各地に様々な形で根付いています。大きく分けて、生地を完全に焼き切ったものと、半熟状態に焼き上げてシロップのようになった中心部分との食感の違いを楽しむものの2つがあるそうです。

ここでふと思い出したのは、日本で流行した「半熟カステラ」。日本独自に開発されたものだと思い込んでいましたが、ここでもポルトガルにルーツを発見しました。本国では、卵・砂糖・粉の割合は少しずつ変化するものの生地の作り方にはほぼ違いはありません。しかし細かな地域ごとに様々に焼き方や型が変化します。

ポートワインで有名なポルトPortoを中心とした地域では、素焼きの大きな型の中心にお椀形をした素焼きの型を置き、紙を敷いて生地を流し込みます。さらに底と同じ型でふたをしてドーナツ状に焼きあげます。この辺りではパォン・デ・ローを食べながらポルト酒を飲むのが定番だそうです。


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ポルト周辺で使用される型。大小様々あるという

その少し内陸に入ったヴィゼウViseu周辺ではパウンド型で完全に焼き上げたものを、更にシロップにくぐらせます。その辺りの更に小さなある地域では、舟型を使用して焼き、表面に糖衣がけをするものもあるようです。

今回作ったのはポルトの街から南に100kmほどのオヴァールOvar近郊で作られているタイプであり、本来であれば今回の一人前サイズよりもさらに大きい家族で食べられるようなサイズで作るのが一般的で、ふたなどはせずそのままの状態で半熟に焼き上げます。


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直径約18㎝、約3人前のサイズ

リスボンから北に100㎞ほどに位置するアルフェイゼランAlfeizerãoでも、半熟タイプが食べられており、型はかつて銅鍋を使用していました。現在ではアルミ鍋にバターよりも安価なマーガリンを塗り、ふたをせずそのまま焼いているそうです。

これらの型の様々や配合はいずれも先人が作り出したものを、16世紀ごろに「パォン・デ・ローのレシピ」として成立させて以降、全く手も加えずそのまま受け継がれたもの。伝統を重んじて...と考えれば非常に由緒のあるものに聞こえますが、智子氏に聞くと、「ポルトガルの人たちは、料理にしてもそうですが、変える、ということの必要性を感じていないのです。彼らにその訳を尋ねたら、きっと『なぜ変えるの?このままで美味しいじゃない』と返ってくることでしょう」。このあたりに真意があるようです。

ルーツを同じくするパォン・デ・ローとカステラ。一方は、ポルトガル人の考え方に基づいて日本に伝わった当時の形のまま今も愛され続けており、もう一方は日本で様々な伝来の物や技術を取り入れて独自の進化を遂げ、愛されているのでした。

「パォン・デ・ローは必ず一日休ませてから食べるものなのですよ。」と智子氏に教わったので、翌日、さっそく作ったパォン・デ・ローを食べてみました。まずは今回講習会で作ったパォン・デ・ロー。ふちの完全に焼けた部分と中心の生焼けの部分が一晩置くことによって馴染み、しっとりとしています。口に含むと卵の香りが広がります。少量のシナモンが入っているとはいえ、生地に含まれる卵が半熟卵のように加熱されたことによって卵特有のにおいは増しており、日本人にとっては好き嫌いの分かれる味かもしれません。

次に食べてみたのは街のパステラリーアで見つけた完全に火を通したタイプのもの。ふわふわとした食感はスポンジ生地のようで、完全に火を通しているので卵臭さも感じられません。また、香辛料の類も入っていないので、生地本来の味のみが口に残ります。


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完全に火を通したタイプのパォン・デ・ロー

そして最後に食べたのは、カステラ・ド・パウロで売られているカステラ。先に食べた2種類のパォン・デ・ローと比べてみると、蜂蜜などの生地を保湿する働きを持つものが加えられたことにより、よりしっとりとした口当たりが際立っています。生地の泡立て具合も違うのでしょう、気泡のきめが細かく、弾力がありながら口の中に入るとやわらかに溶けるような感じがします。


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カステラを知らない人のための解説書付で売られている

こうして食べ比べてみると、確かにカステラのほうが技術が洗練され、より手が込んでいると思われるのですが、ついつい手が進んで食べつくしてしまうのはパォン・デ・ローでした。例えてみるならば、たまに手土産でもらって嬉しいのがカステラであり、いつもの3時のおやつに出てくるのが待ち遠しいのがパォン・デ・ロー。初めてポルトガルで食べたのに、どこか懐かしさを感じさせてくれるのでした。

さて、半熟カステラより少し前、エッグタルトというものが日本でも流行しました。エッグタルトという名を持つだけあってアメリカ生まれだと当時の私自身思い込んでいましたが、このお菓子も実はポルトガルが発祥のお菓子だそうです。そのお菓子が名物として名高いお店があると耳にした私は、リスボンの南西、ベレンBelém地区にある「パステイシュ・デ・ベレンPastéis de Belém」に向かいました。


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左:お店の入り口。青と白が基調
右:パステイシュ・デ・ナタ。上の焦げ目が美味しさの印

「パステイシュ・デ・ナタPastéis de nata」(注5)と呼ばれるこのお菓子はいまやポルトガルの国民的おやつとしてどこのお店にも並び愛されていますが、実はこのお店が発祥の地。この店の目と鼻の先にある世界遺産に指定されたジェロニモス修道院は1820年の自由主義革命下、閉鎖に追い込まれ多くの修道士たちが行き場を無くし生活が困窮しました(注6)困り果てた彼らは、生計のために修道院の中で技術伝承されていたこのお菓子を作ることにし、売り出してみるとこれが大評判。またたく間に評判が街中に広がり、1837年今のパステイシュ・デ・べレンを構えるまでの銘菓に成長しました。

店では今も昔ながらのレシピを守り継いでいます。構造はパイ生地とカスタードクリームのみといたってシンプルですが、その製法が一風変わっています。まず、通常より回数を少なく折り込んだパイ生地を2~3㎜に伸ばしたら棒状にくるくると巻いていきます。

一度冷やしたそれを今度は輪切りにし、断面を上にして型に置いたら、そのまま押し広げるように型に敷きこんでいきます。こうして渦巻き状になった器の中に、バニラなどを入れずとろとろに炊き上げたカスタードクリームを流し込み、なんと400℃もの高温の窯で一気に焼き上げます。そうすることにより、生地と表面だけに火が入り、中のクリームがとろっとしたまま焼きあがるのです。


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左:これを...
中:渦を崩さぬよう敷きこむ。熟練の技が必要
右:裏から見るときれいな渦模様がよくわかる

その日に焼きあがったものを、ほんのり温かさが残るうちに店内でいただくのが一番のこのお菓子は、このお店では一日に2000個も焼かれているとか。私も例にならって「店内で!」と注文しカウンターの隅で待つと、粉砂糖とシナモンパウダーの入った容器と共に運ばれてきました。

これらをそれぞれお好みでふるいかけるのが正しい食べ方だそうで、持ち帰り用の箱詰めしたものにもきちんと砂糖とシナモンパウダーの小袋がついてきました。何もかけないものと食べ比べてみると、なるほど確かにシナモンの香りが後口をすっきりとさせてくれます。敷きこまれた生地の渦巻きが噛み切る向きに沿っているため、サクサクとした食感と歯切れの良さを生み出しているのかと、食べて更に納得したのでした。


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持ち帰り用の小袋

「国民的おやつ」と言われるだけあって、街中どこのパステラリーアに行っても必ずこのパステイシュ・デ・ナタは売られています。「"ナタ"一つ下さい!」の一言で通じてしまうこのお菓子は、お店によって中に詰めるクリームの配合は少しずつ違いますが、生地の敷きこみ方と焼き方は同じ。今回訪れた様々なお店で食べ比べてみましたが、いくつ食べても飽きのこない、素朴な味わいでした。


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左:こちらのナタは卵黄多めでより濃厚な味わい
右:こんなに山盛りでも夕方には売り切れるそうです

色々と調べながらポルトガルのパステラリーアを食べ歩いていると、並ぶお菓子はどれもフランスや日本のように華やかさがあるわけではないのに、素材の味がしっかりとしていてどこか懐かしい味わいがするものばかり。初めて訪れたのにどこか懐かしく、それでいて新鮮、というよりはお菓子の原点を見せてもらったような、そんな実りのある今回のポルトガル紀行でした。

(注1) 元の名は「コンフェイトConfeito」といい、日本語にすると砂糖菓子を意味します。昔はスパイスのフェンネルシードの粒を核にしてその周りにシロップを絡めながら結晶化させる作業を手作業で行い作っていたそうです。今ではざらめ糖を核に使用していることが多いようですが、現在ポルトガルでは、大西洋上にあるポルトガル領の群島であるアソーレス諸島の一部の工場でしか生産されていないそうです。


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智子氏のお店に並んでいたコンフェイト

(注2) ポルトガル語でお菓子全般を意味する「ボーロBolo」から由来しています。

(注3) 天武天皇の時代の675年、仏教の殺生戒を背景に獣肉食禁止令が出された際に禁止された獣肉の中に鶏が含まれており、仏教が広まる前の日本で鶏の肉は食用にされることもあった事が分かっています。

鶏卵のほうは食用にすることに禁止令が下ったというはっきりとした記述は残されていないものの、日本には古来より鶏を神聖視する考えが根強くあり、また仏教思想の浸透にともなう殺生への禁忌もあいまって、16世紀のポルトガルを含む南蛮文化との出会いまでの間、日本では卵を食べる事は一般的ではなくなっていたようです。

(参考文献:「新・食品事典2」河野友美編、真珠書院刊)

(注4)  カスティーリャ王国(現在のスペイン北部に位置した王国) が現在のポルトガル北部へ領土を拡大した際、カスティーリャから伝わった菓子がポルトガルにパォン・デ・ローとして根付いたという説があり、パオン・デ・ローが現在もポルトガル北部でより多く作られる理由であるといわれています。また、カスティーリャ王国がカステラの名前の由来であるという一説もあるそうです。

(注5)ナタとはポルトガル語で卵黄を使ったクリームの事を指します。つまり、「卵黄クリームのお菓子」という意味になります。

(注6) このころ政権を握っていたドン・ジュアン5世は困窮を極めていた国の財政を立て直すため、王族まがいの生活を送っていた僧侶に対して乱費制限などの政策を打ち出し、教会への寄付などの収入が閉ざされることとなりました。さらに1834年の勅令によってすべての修道院が廃止され、その財産は教会の管轄から外されてしまったそうです。

※カステラやパォン・デ・ロー、パステイシュ・デ・ナタの歴史については、智子ドゥ

アルテ氏よりいただいた多くの資料や直接うかがったお話を参考にさせていただきまし

た。この場を借りて深謝いたします。