REPORT

代表 辻芳樹 WEBマガジン

Vol.2『Toshi Yoroizuka』オーナーシェフ 鎧塚俊彦

Chef’s interview

2010.12.17

2010年12月17日 by suyama

■卒業後のキャリア設計■

辻:辻製菓専門学校卒業後、いきなりホテルに就職されていますね?これはどうしてですか?

鎧塚:当時、ホテルに憧れを持っていたんですよ。今は少しホテルの状況は厳しいですが、当時はすごく勢いがあったんです。

辻:希望されたホテルに就職されたのですか?

鎧塚:その頃のホテルは競争率がすごく高かったんです。それに23歳という僕の年齢は当時はホテル就職には厳しい年齢でした。

辻:23歳でですか?現在だと決して不利な年齢ではありませんが・・・

鎧塚:そうですね。でも、当時は厳しかったです。当時のホテルの両横綱はロイヤル(現在のリーガロイヤル ホテル)とプラザ(プラザホテル:現在は閉業)でしたが、プラザなんて就職希望者が順番待ちで、とても入れるような状況ではなく、まずは守口プリンスを受けましたら合格しましたので、夢中になって仕事していましたね。

辻:守口プリンスには何年間ぐらい?

鎧塚:3年間いました。

辻:その後は?

鎧塚:神戸ベイ・シェラトンホテルですね。

辻:守口プリンスでの3年間という期間は契約か何か?

鎧塚:いえ、違います。僕はホテルを移るつもりはなかったのです。ところが今もそうですが、ホテルの飲食部門の上の方々はけっこう繋がっているんです。当時、元ホテル・プラザの安井製菓長のお弟子さんたちが繋がっていて、神戸ベイ・シェラトンホテルがオープンの時に守口プリンスの製菓シェフから「セクションシェフで行かないか?」って提案されたのです。

辻:勤務3年目でセクションシェフのオファーですか?

鎧塚:そうなんです。当時僕は25歳になっていましたが、最初このオファーは断りました。

辻:どうしてですか?

鎧塚:守口プリンスホテルでもまだ一番下のいわゆる“ペイペイ”でしたから「そんな僕みたいな“ペイペイ”では行けません」ってお断りしたら、当時のシェフが「確かになあ、今、セクションシェフで行ったら苦労するやろな、でもな、今も苦労してるやろ、どっちみち苦労するんやったら報われる苦労したほうがええんとちゃうか?」って言われて「あっ、そうか」と思って移ることにしました。

辻:キャリアを見させていただくと8年で製菓部門のスー・シェフ・・・

鎧塚:いや、5年です。3年間守口プリンスにいて、神戸ベイ・シェラトンでの2年目少したった頃にスーシェフを任じられましたので・・・

辻:一般的なパティシエだと考えられないトントン拍子の出世なんですが・・・

鎧塚:そういう風に言っていただくとなんか僕に才能があるように思われるかも知れませんが、実は才能なんてないんですよ。むしろ無器用です。ただ僕がこの世界に入ったのは23歳です。ただでさえ無器用なのに年齢的に後発という状態で普通にしていてもどうしようもなかったんです。
あのですね。小学校や中学校のときから一人や二人ぐらいできないやつがいるじゃないですか?

辻:っうん。

鎧塚:一人ってことはないかな。でも、一割ぐらい何をしても駄目な子っているじゃないですか。僕はそういうタイプだったんです。でも少し珍しいのは普通クラスを引っ張っていく子はそういうタイプじゃないですよね。僕はクラスを引っ張っていくんですけれど何をやらせても鈍くさい1割の中にいる子だったんです。これはけっこう珍しいパターンで僕もなかなかそのことに気づかなかったんです。
僕には兄と姉がいるんですが両方ともクラスのリーダーシップをとる人間で、父親の血をひいて器用だったんですね。僕も同じように小学校の頃からクラスでリーダーシップをとってはいたのですが、やることなすこと「なんか今日調子が悪いな」「今日も調子が悪いな」っていうのが8年ぐらい続いたんですね。(会場、笑い)中学生ぐらいまでその感覚が続いて、ようやく「俺はどんくさいんや」って気づいたんです。そこから努力をし始めたんです。


辻:どのような努力を?他の人の倍の努力をする?もっと時間をかける?

鎧塚:他の人と同じことをしていたのでは他の人と同じようにはできないことを自覚していました。自然と努力はしていました。ただその努力に対して苦労しているとか、大変だなとかの認識はなかったです。この感覚はパティシエになっても持ち続けていましたから、ただでさえ4年も後発なので他のパティシエ以上になんでもやらなければと思ってやってきましたね。

辻:それは単なる体育会系の根性論ではなく、常に自分の状態を冷静に分析しつつということですか?

鎧塚:いや、ちがいます。最近はずいぶんおとなしくなりましたが、若いときはだいたい気合でなんでも乗り越えられると思っていました。ですからベイシェラトンの2年目にスーシェフを任せられて、そのうちシェフのオファーとかがくるようになったんです。ただしこれは僕にピンポイントにくるわけじゃなくて、当時のシェフに対してオファーがあるんですが、シェフは動きたくないので、スーシェフである僕にオファーするわけです。
さきほども言いましたように僕は自分でがんばっている意識はありましたがこのままシェフになったら自分はつぶれるな、と。技術もないし、知識もないし、キャリアの階段を何段か飛ばしてここまできて、しかも上の方々にけっこう可愛がっていただいていたので、実力でここまで来たのじゃないという一種のコンプレックスも持っていましたから、「こんな状態でシェフになったら俺はいつかつぶれてしまうな」と思ったんです。

言葉の通じないところでどれだけできるか?■

辻:それでヨーロッパに行かれたのですか?

塚:ええ、でも、それだけでありません。やはり僕は確かに要領がよかったんだと思います。ホテル内の他の店舗との方々とのコミュニケーションを上手くとっていましたから、当時の製菓シェフなどの無理な要求にも即効応えることができたんです。
シェフの要求はただ単純に無茶だというのではなくて同じホテル内の人間関係の構築の大切さのようなことを教えたかったんだと思うんです。そういった要求に即対応できる要領のよさのようなものが僕にはあったわけです。で、また僕は思うわけです。思ったのは一種の要領よさでスーシェフまで任されるようになったのではないかなという思いが強くなって「このままではだめだ」と考え始めたんです。

辻:その話は仕事は技術だけではないということですね。

鎧塚:そうです。今となってはそう思えますが、当時は「俺はアカンのちゃうか」と思ったんです。それでまったく言葉の通じないところで勝負する必要があるのじゃないのかなというのもあったんですよ。

辻:自分の腕がどれだけ世界で通用するか見てみたいということではないのですか?

鎧塚:それもありました。言葉の通じない世界で技術だけで勝負してみたかったということもありましたし、それと一からやり直してみたいというのもありました。ただ、8年間で4カ国回りましたが、結局同じでしたね。

辻:同じというのは?

鎧塚:僕が言うのもどうかと思うのですが、スイスでもその他の国でも周囲の方々に可愛がってもらいましたね。言葉が通じなくても同じでした。例えばスイスで仕事が終わった後「おい!飲みに行くぞ!」て誘われたら、ヨーロッパで修行している日本人で女性の場合は積極的に行くのですが、男性は「僕はちょっと・・・」って消極的な感じになるんです。これが駄目なんですね。言葉が話せようが話せまいが「飲みに行こう」って言われたら僕なんかは行って楽しみたいですよ。こういうことが大事なんだなって後になって徐々にわかってきましたね。こういうことが技術に繋がるんですよ。

辻:人間関係の蓄積の上手さは技術の向上と関係があるということですね。

鎧塚:はい。要はその時にできることを精一杯やるということです。飲みに行ったらそこでしっかり楽しむ、その瞬間にできることを精一杯やっていくからこそ先があると思うんです。それをおざなりにして先の大きなことばかり言ってても駄目だと思います。

辻:何かを成し遂げる人っていうのは常に現在の自分に物足りなく、常に上を見続ける人って多いじゃないですか。鎧塚さんも必ず上には上がある、自分の技術はもっと向上できるんじゃないか、と思ってやってこられました?

鎧塚:もっと、もっと、もっと、というのは常にありますよね。ただ、そういう気持ちを楽しむことってすごく大切ですよね。僕らが若い頃、先輩方が夜中の0時ぐらいに帰られて、その後朝の2時ぐらいまで仕事をしていることがありましたが、それは苦労とかではなくて、楽しかったですね。
僕はぎりぎりまで仕事やって、終わって30分ぐらい酒を飲んだときに「あー今日もやったな。今日も精一杯頑張ったな!」て思えたら気持ちがいいんですよね。
たまに仕事が早く終わって時間が余ってしまうと気持ちがあまり乗らない、楽しくない。
不自由と自由とか、成功と失敗とか、チャンスとピンチとかは決して対極にあるものではなくて、表裏一体だと思うんです。そういう感覚を若い頃から楽しんでましたね。
例えば、ヨーロッパでもやはり人種的な差別はあるんですよ。決してあってはならないものだけれど。僕はあるもんだと思っていましたので、そういう感じになったときは「おっ、来た来た」って思いましたね。そして、逆にそんな状況の中でどうやれば「Toshi! Toshi!」とリスペクトしてもらえるのだろうって考えることを楽しんでいましたね。

辻:常にそうやって事前準備のようなことを考えているわけですか?

鎧塚:いやいやそんなことはないですよ。ただ、例えば湘南の海でサーフィンをやっているサーファーが、オーストラリアの海などへ行くのはさらに大きな波を求めて行くわけですよ。その時に「なんでこんな大きな波なんだ!」って思ってしまったらそれは変じゃないですか。それを求めて行ったのですから。
僕がヨーロッパへ行ったときも小さな波では物足りなくて、もっと大きな波を求めて行きましたからそれを待ってましたよね。「もっと来い、もっと来い」って気持ちですよ。で、大きな波がきたときは「わぁ!来た」と思って乗っていくわけです。僕は乗り越えられなかったことはありません。
それに乗り越えたときは気持ちがいいですね。そして「また来い!」と思うわけです。でも、不思議なもので「来い、来い」と思っているときは来ないんですよ。「来ないで欲しい」
と思っていると来るんです。で、来たときには「ほら、来た」って感じですよ。 例えば働く予定になっていた店で急に断られるとかという波がくるわけです。フランスの屋根裏部屋でお金もなく、バゲットだけ食べて時間を過ごしたりしていると「なんか格好いいな」って思うわけです。まったくお金はないんですよ。でも楽しいんですよ。

辻:なんか苦労話をぜんぜん苦労話のように聞こえさせないですね。

鎧塚:いや、苦労じゃないんですよ。だって飢え死にしないですから。こういう言い方をすると失礼ですけど国によっては何とかしなければ本当に飢え死にしてしまうという国もあると思いますが、フランスでは飢え死にしないですから。

辻:お菓子といえばドイツ、フランスですが、どうしてスイスへ行かれたのですか?

鎧塚:実は最初はフランスへ行こうと思っていたんです。でも、当時僕の周りにはフランスで修行された方がいらっしゃらなかったので、どうしていいかまったくわからなかったんです。たまたまスイスからいらっしゃったシェフの方の講習会の助手に僕がついて、その時に「ヨーロッパへ行きたいのですが」というと「じゃあ、来なさい」ということでスイスに行ったんです。でも、今思えばスイスの小さな店に最初入ったことで自分のお菓子に対する考え方が構築されたと思います。その店で僕が作ったケーキはきれいな仕上がりだったのですが売れませんでした。昨今、とてもきれいなまるで宝石のような、どこか食べ物じゃないほど美しいケーキが売られているじゃないですか、僕はああいうケーキは駄目なんです。

辻:人間的じゃない?

鎧塚:と言いますかケーキは食べ物ですから、「食べてみたい!」「美味しそう!」って思わせるケーキでないと僕は「美しい」と思わなくなったのでスイス、そしてウィーンで仕事をした影響が強くあると思います。

辻:その頃はパティスリを作られていたのですね?

鎧塚:ずっとそうです。最後だけベルギーのレストランでデザートの仕事をしました。

<HP>六本木ミッドタウン 『Toshi Yoroizuka』

<『Toshi Yoroizuka』オーナーシェフ 鎧塚俊彦氏>次回の更新は12月24日(金)を予定しています